2009年11月15日

生徒会各部報告 音楽部 1962年

 今年は部員数が少ないため、一、二年の人達三十名に協力してもらい、七月頃から合唱練習にとりかかった。放課後行うわけだったが、何かと都合が悪いので、自転車の許可を得、火木金と朝礼の無い日の始業前に行う事にした。朝七時半に集まる事は容易でなく、時々半数以上も遅刻し練習を中止した事もあったが、合唱の方は日に日に向上して行った。又合奏の方も二、三曲選んで始めたが、十一月二十八日小川での部の発表会には、練習不充分なため合奏は取上ず合唱二曲、「思い出の高原」と「さくらさくら」を仕上げて参加した。
 後、練習を重ね、十二月五日の毎年おこなっている班の発表会には、「合唱二曲」と「ピアノ連弾」、それに三年生の中村君にお願いし、「独唱二曲」を発表した。どちらともよい成績を得、又学校の色々の演奏を聞き、大変良い勉強になったことを全員が喜んでいます。それから十二月十二日の学校参観の時は、音楽室が先生方の控室になってしまったため、一年D組を借りて去年と同様、レコード鑑賞を行なった。
 以上がおもな今年度の音楽部の活動状況でした。今後の音楽部には楽器を整え、又音楽希望者が多く出て、立派に活やくする事を期待します。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』13号 1962年(昭和37)3月
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2009年11月14日

生徒会各部報告 排球部 1962年

 卒業迄残す処二ヶ月。母校を去るに当り、いくつか感じた事を述べさせて戴きます。
 夏の暑い日にも、時には忙しい自分の仕事をもさいてご指導をして下さった藤野先生を始め諸先生や、心から激励して下さった先輩の方々のご意志にも報いる事が出来ず、何と言ってお詫びしてよいかわかりません。
 マンモスクラブとさえ言われたわがクラブは八十一名の学校一を誇る多人数でした。しかし、試合に出られる人数は限られています。その為か練習時の集合状態が悪く、クラブが皆のものにならなかった事を遺憾に思いました。チームとして特に困ったのは、試合が近づいた頃です。練習に油がのってきたのに、遠く迄ボールを拾いに行く状態で、充分な練習ができません。選手の苦労も大変なものでした。暑い時、又農繁期には「この忙しいのに……。」と叱られながら。
 選手間に於ては、日常の生活で仲がうまくいく様に努めました。「コート上のチームワークは日常のチームワークであって、コートだけのチームワークは考えられない。」という事をつくづく考えさせられました。
 四月の郡体は南中校庭を会場に開かれた。我チームの相手は優勝候補第一線として活躍している八和田チーム。本年新調されたユニホームを着た我チームのメンバーのファイトも空しく、二対一という口惜しい処で敗れてしまった。しかし良い試合をしたいという、心に誇りを持った選手は、八月の試合を目指して頑張った。八月の郡体は小川高校校庭に於て開催された。我チームのメンバーは、試合開始二時間余前から会場に集り、すがすがしい朝の中に練習をやった。当日の相手は川島。我方の勢いも大変だったが相手も好調。一セットめは延長に入り我チームが勝った。二セットは少し油断してしまったのか相手にとられ、三セットに勝敗がかかった。当セットも延長戦に入ったが、相手の強力なサーブに敗れてしまった。でも、全力を尽くした後の気持は、ずっと誰の気持からも消えないだろう。クラブは皆のものです。試合に負けた時は、クラブ員全員が反省し、「今度こそ」という気持で頑張って下さい。
 今年卒業する三年生の中には、「私は死ぬ迄バレーをやるぞ」と実際口にした者が数名おります。試合に勝てなかったけど、何の名誉も残す事も出来なかったけど、此の言葉こそ今年の成果とも言えるのではないだろうか。
 最後に来年こそ後輩の皆様が、試合はもちろんの事、何事に於ても勝利を獲得せられん事を、切に願ってやみません。
 参考迄に、本年度の選手を紹介しておきます。
  F.L 木村利江(3)
  F.C 内田慶子(3)
  F.R 中島キヨ子(3)
  H.L 大野幸子(2)
  H.C 河井初代(2)
  H.R 小林加代子(3)
  B.L 滝沢日出子(3)
  B.C 中島みよ子(3)
  B.R 内田祐子(3)
 尚、学年別部員数は次の通り。
  一年 二十二名
  二年 三十一名
  三年 二十八名

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2009年11月13日

生徒会各部報告 篭球部 山下篤美 1962年

 春たけなわの四月、桜の花吹雪をあびながら僕たちは練習を開始した。今年度の部員も前年度に増してトランジスターぞろいであった。体力の不足を補うものはやはりチームワークと技術である。僕たちの練習の重点も当然ここにおかれた。やがて練習の成果をためす時が来た。菅谷班球技祭である。優勝は出来なくとも、せめて二位には食い込みたいと思って試合に臨んだ我がチームは、激戦の末、七中、宮中と連破し、あっという間に優勝してしまった。菅中篭球部にとっては絶えて久しい、待望の優勝だったにはちがいなかったけれども、余りに早く、簡単に転がり込んだ栄冠に、かえって僕たちはとまどいを感じたくらいであった。シーズン浅い頃であったから各校とも練習不足で本調子を出していなかったことも一つの原因だったかも知れないが、僕たちにとっては、とにかく無上の贈り物であり、限りない自信と希望とを与えられた。「望みなきに非ず」部員の誰もの胸に、こんな思いがみなぎった。更に練習を重ねて、南中での総合体育大会予選に臨んだ僕たちは比企郡の強豪鳩山中と対戦し、熱戦の末、破れた。相手チームのたくましい体力、すぐれた技術に完全に圧倒された形で、緒戦の優勝で僕たちの胸にあった誇りは早くも無惨に打ち砕かれてしまった。
 炎暑の下での汗まみれの練習を経て小川高コートでの郡体に臨んだ菅中チームは、吉見中と対戦したが、この時から採用された新ルールに僕たちは少なからずとまどった。しかし懸命に戦った。追いつ追われつのシーソーゲームの末に又も一ゴール差で涙を呑まねばならなかった。今一歩のねばりが足りなかったのだ。かくして緒戦の球技祭優勝といる、輝かしいスタートにも拘らず、その後の我が部の成績は余り芳しいものとは言えなかった。今年も又、体力の不足、基礎技術の貧困という数年越しの課題を、完全に解決することは出来なかった。懐かしい篭球部を去るにあたって今年も又多恨の一文を綴らねばならないのは残念であるが、伝統ある菅中篭球部の歴史にささやかながら「優勝」の一頁を加えることが出来たのは久しぶりの快挙ということが出来よう。
 後輩諸君、重ねていう「望みなきに非ずと……」
 菅中篭球部の発展を祈って筆をおく。

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2009年11月12日

生徒会各部報告 郷土部 三年C組 奥野正雄 1962年

  クラブ活動等の状況
七月 七郷地区文化財調査へ村の文化財調査委員の先生方に同行する
八月 将軍沢地内須恵器窯趾の見学調査
十月 石造遺物についての研究
十二月 班文化祭において郷土部の出品作品が金賞に入賞
一月 産経新聞埼玉版に「古里横穴古墳」に関連して、菅中郷土部の名が報道される
一月 大蔵地区積石塚、縄文遺跡の調査研究

  反省
 右の活動状況のように、郷土部とは名ばかりで、たいした発展もなくこの一年間をすごしてしまいました。年度のはじめに、しっかりした計画をたててやれば、もっとりっぱな活動ができたろうと思います。
 今後とも菅中の郷土部がますます発展するようがんばって下さい。

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2009年11月11日

生徒会各部報告 卓球部 1962年

 最初に、この一年間の試合結果を報告致します。

  選手名
高橋新一 杉田芳雄 高野益男 笠原健
内田和夫 吉野昌夫 内田清司 小林ちい子
杉田順子 柴田みき 金井悦子
中島圭子 根岸トヨ子 原田道子

五月一日 郡市民体育祭(個人戦)
 男子 全員コンディション整わず、敗れる。
 女子 単の杉田、小林、複の柴田・金井組県体出場決る。

五月二十日 県民体育祭(個人戦)
 前記の四名出場
  単 杉田二回戦対入間郡に敗れる。
    小林四回戦対秩父市に敗れる。
  複 柴田・金井組二回戦対秩父市に敗れる。

五月二十二日 菅谷班球技祭(団体戦)
 男子 菅谷2−3七郷 菅谷4−1宮前
 女子 菅谷5−0七郷 菅谷5−0宮前

八月十三日 郡市民体育祭(団体戦)
 男子 菅谷三回戦対小川西中戦に敗れる。
 女子 菅谷決勝戦対小川西中戦に勝ち、県体出場決る。

九月十八日 県体体育祭(団体戦)
 女子選手四名出場。
  一回戦鴻巣市を3-0に破り、二回戦へ。対川越市戦を3-1。三回戦対熊谷市を3-1。そして準決勝対浦和戦を3-0でくだし、決勝戦へ。しかし、ここで私達対入間戦に3-0と、無惨にも、敗れてしまいました。

 さて、これらの試合を経て来た今、私達が総括して言えることは、「一にも、二にも練習」ということです。これは、スポーツに限らず、何にでも練習は必要ですが、練習をしないで、試合に臨むことは、議題を決めないで、討論するようなことで、よい結果は生れません。
 後輩の皆さん、菅中卓球部の名を高めると共に、私達の出来なかった県体優勝の夢を叶えて、下さいますよう、願ってやみません。
 御活躍を期待致します。

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2009年11月10日

生徒会各部報告 庭球部 1962年

 本年度の庭球部は、予算を多額に配布され、期待されたのにもかかわらず、良い成績をおさめることが出来なかったことは、私達の努力が足りなかったことと、深く反省しております。
 春季には、余り練習もなくのぞんだため、簡単に負敗を決したので、これを心のいましめとして、夏休み中に、一生懸命練習に励み、自信を持ち、夏季の球技祭にのぞみました。
 しかし、試合をしてこの自信は、みじんにも、破れ去ってしまったのでした。「井の中のかわず、大海を知らず」とは、この時の私達にピッタリの言葉でした。この経験を通じて感じたことは「努力」と「協力」の重要さでありました。努力とは、日々の蓄積であって、一週間や二週間で得ることは、不可能なことと思われます。努力や協力があってこそ、美しき結晶を得ることが出来ると信じています。
 一年生や二年生の人達が、菅谷中学校の庭球部を向上させてくれることをのぞみ、期待します。

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2009年11月09日

生徒会各部報告 柔道部 三年・奥平朝己 1962年

 菅中柔道部が生れて早や七年、先生や先輩のお陰で私たちは心配することなく練習に励むことが出来た。柔道というスポーツは技能をみがくことであり体をきたえることである。
 だが部員の中にはでたらめでやっている者もいたが二年、一年の人達を中心に練習に励んだ。このような練習が日に日に重っていき次第に養われていく。
 そして五月に行なわれた郡市民大会が東松山警察道場で開かれ出場、堂々Aチームの優勝、Bチームの準優勝というすばらしい栄冠を得た。その間県体目ざして猛練習に励んだ。
 そして県体が浦和高校を会場として開催され、比企郡代表として我が菅谷中学校柔道部は出場した。一回戦は勝ち、二回戦に進んだが大宮桜木中学の強豪の前におしくも敗退にいたったが、秋県体にはと夏休み中暑さにもまけず毎日練習に励んだ。そして郡市民大会が小川警察道場を会場として開かれたが小川と吉見に敗れたため、県体へ出場することはできなかった。
 こうして本年度の主な試合は終ったが、ふりかえって見ると思ったほど好成績は得られなかった。
 二年、一年は来年の県体には必ず良い成績で終ることを願い、技能の向上となにものにも負けない体を作るために努力してほしい。
 最後に後輩諸君のめざましい活動と菅中柔道部の発展を心から祈る。

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2009年11月08日

生徒会各部報告 陸上部 部長 1962年

 今年の陸上部は十人たらずであった。
 入部者は、一年生が一人にはおどろいた。
 陸上部といえば走るだけと思っている人がいるから入らないのではないだろうか? でも陸上部は走るだけがのうではない、ということを知らせておこう。
 去年の部長の言うとおり女子が入ってもらいたい。これからは「フィールド競技」を中心に陸上を進めて行ってもらいたいことをのぞむ。
 五月六日、松山南中で郡市民体育大会がおこなわれ、杉田さんなどの何人かの女子も参加してくれた。その結果、能見君が走り高とびで、神村君も二千で県体に出場することができた。五月、運動能力テストがあるため砂場を新しく作り変えると言うのだ。それも陸上部におねがいしたいと藤野先生からのたのみだった。
 五月二十日からほり返えしがはじまった。それから毎日放課後ほった。六時ごろまでかかったこともあったが、陸上部員の協力により六月二日、この日までかかって完成した。砂も一流の砂だといっていた。五月二十八日、県体があったが、なにしろはじめてなのでたしかに上ってしまった。
 六月、全国放送陸上競技大会は「大宮の競技場」であった。能見君は高とびで一メートル八三センチをクリアーして賞を受けた。陸上部最大の喜びであった。神村も二千に出場。七月十九日、砲丸のサークルも陸上部員の力で完成した。人数は少ないが全員の協力で行なった。
 八月二十日、小川高校にて青年及び中学校の郡市民予選体育大会があった。高とびで能見君が県体に出場することが出来た。去年から「二粁」以上は走ってはいけないといわれているので、今年は駅伝はないのかと思った。一〜二年が練習していたが三年はなにかといそがしいので、おおいに練習した方ではなかった。三十七年が明けた一月十日、駅伝があることになり、十三日に行う通知があった。十三日、出発十時として松山を中心におこない、二、四キロぐらいのコースだった。一チーム六人としてバトン式におこない、中学三年の部で南中につづき二番で終った。
 でもこれからは陸上部として記録をぞくぞくのこすことをいのっております。

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2009年11月07日

生徒会各部報告 購買部 1962年

 私達が中学校に来て、まず気づいたことは購買部があると言うことです。普通の小売店と同じように学用品は、ほとんどそろっていました。
 購買委員となってからは、三クラスで交代に購買してきました。ある時は、自分達の週を手伝ってもらい、又、ある時は他の組も助けてやったりしながら、現在に至ったわけです。
 なるべく他の店に行かずにすむようにするため、各クラスごとにいろいろ調べてもらったりもしました。「購買部には品の種類が少い」「開ける時間が決まっていない」など生徒の皆さんに批判されながらも、私達は毎日皆さんの便利なようにと努力して来ました。
 数回開いた委員会では、二年生の奉仕、室の掃除等、皆さんの便利なように又、清潔と言う事も考えたのです。各自いろいろの目標に巣立つ三年生達は、始業前や昼休みに購買室に向うのは、実にいやな時があります。そのため、例のないことですが、二年生にも手伝ってもらうと言う意見が出たのでしょう。
 お客さんとなる皆さんにとっては、いろいろと不都合、そして腹の立ったときもあることと思います。しかし、私達としてはできる限り立派につくしたと考えております。
 私達が社会へ巣立った後も、後輩の皆さんの努力で、今より更によいそして又、この菅谷中学校の続く限り、学校の一つの誇りとして末永く残ることを望みます。

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2009年11月06日

生徒会各部報告 書道部 部長・西沢久子 1962年

 書道は閑人のヒマツブシとか、手先の小技などと誤解しておる人もある様ですが、実用は勿論、芸術としても、趣味としても、修養としても又、休養として、誠に結構な人生の幸福と思われます。娯楽は不生産的でありますが、書道は一日の労苦を古帖に慰め、筆硯によって憩うことの出来るものです。此の精神に少しでも近づこうと、私達書道部は文化クラブの一部としてやって参りました。部員数五十六名という大部隊で、練習の時、一度に全員が残って練習すると、一教室だけでは入りきれず、他の教室から机を運んで来て、練習にいそしむ人も少なくありませんでした。
 それから書道部には「始めは残って練習するが、だんだんと残っていく人が少なくなる。」という悪い傾向がありました。
 しかし、展覧会等に出品した書道部の作品は、優秀なものが多く、秋の班文化祭には、一年の杉田さんの金賞をはじめ、たくさんの入賞者がおりました。これも書道部にとっての一つの誇りといってよいでしょう。
 大部分の部員は、全国にまたがる大同書芸院の「墨遊会」に入会しております。一カ年足らずではありますが、すでに四級の資格をとっているもの三人、五級が六人、六級が十二人……と、だんだん上級に進級しております。その上、その級において一番優秀な作品には、賞がいただけますが、菅中書道部では部員の三分の一位の人がその賞をもらっております。
 このように一年を省みてみると、書道部にはまだまだ、伸びていかなくてはならないところが沢山あると思いますが、尚、三年の私達部員は下級生に引づられていくような、逆の立場にあったようでした。来年度の三年生こそは、内田先生御指導のもとで下級生部員をしっかりと率(ひき)いていってもらいたいと思います。今年の成績がかんばしくなかった人も、来年こそ、自分の実力をフルに活用し、これからの書道部に花をさかせて下さることを、お祈りいたします。
 「楽しみは 紙をひろげてとる筆の
          思いのほかに、よくかけし時」

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2009年11月05日

生徒会各部報告 野球部 1962年

 本年度菅中野球部は練習に一心をうちこみはげんだ。春は新入生を迎え、新人戦と春の大会を間近にひかえていたので、キャッチボールからベースランニングといったように一段と練習にも熱を入れてやった。
 だがいざやってみると新人戦、春の大会ともにあまりかんばしくない成績に終ってしまった。今度、東上沿線秋の大会、郡体とをめざし、夏のじりじりとやけつくような太陽の下で、汗と泥まみれになり練習を積んでいった。いよいよ大会、菅中生徒、野球部全体の力をあげてのこうげき、守備もむなしく、敗れ去ってしまった。三年生としてはあまりよくない成績で終ったことが残念でたまらない。後輩の皆さんには、今日まで私達があゆんで来た道を二度とくりかえさぬよう、よい成績を得、野球部の発展を期待しています。
 最後にメンバーをお知らせします。
  P 杉田宗男
  C 根岸重雄
 1B 野沢修一
 2B 杉田司郎
 3B 出野恵佐夫
 SS 内田元之
 LF 山下逸郎
 CF 新藤耕一
 RF 小沢愛彦

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2009年11月04日

短歌 1962年

       二年C組 根岸良江
夕ぐれの 道行く人の あとあとに
  こおろぎの歌 さみしくきこえ

       一年D組 根岸久仁代
こけむした 一つ一つの 石のひに
  昔をしのぶ 山の細道

       三年B組 河井直子
晩秋の さみしく暮れる 夕ぐれに
  心をさそう 母のおもかげ

       三年A組 小林ちい子
夕闇の 川原に真白き ホウセンカ
  はぜる袋に 秋風ぞ吹く

       三年A組 大野寿代
夏の夜の 空に花咲く 遠花火
  話を聞きて 子供喜ぶ

       三年B組 浅見一弘
いまもなお かすかにうかぶ 冬の日の
  先生の家の 黒竹のやぶ

       三年A組 秋山又三
家じゅうで そだを拾った 日を思う
  ゴルフ場となりし わが山を見て*

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*嵐山カントリー倶楽部は1962年(昭和37)10月開場。
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手つだい 一年D組 小林秀雄 1962年

学校からかえると
うちの人が「ふろをむしてくんな」
といった
たきぎをとってきた
すこしたってふろがわいた
自分がむしつけたので
一番にふろにはいった

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テレビ 一年D組 吉田幸子 1962年

私がテレビを
パチンとかけると
すぐつかない
テレビがパッとついた
私は「あっついた」といった

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登校 三年A組 武井潔 1962年

「さむいなあ」
と言いながら家を出た
けさも
きのうと同じ霜がおりていた
「ギュギュ」と
たっぺをふみしめる音が
いかにも勇ましい
「つめたい」
そう言いながら二百メートルの
たっぺの道を歩く
その向こうは
いよいよ学校だ

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一本の木 一年B組 関口宏 1962年

山の上に
一本の木が雨にうたれて立っている
枝からたれるしずくが
なみだのようだ

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夏の夜 二年B組 内田仲次

夏の夜は星がきれいだ
みんな縁側に出てすずんでいる
はだかの人もいる
プーンとかがきて刺していく
時々ピカピカといな光りがいて雷が鳴る
すずしい夏の夜だ

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風雨 二年C組 小林朝光 1962年

学校の帰り道
台風の影響か
雨としっしょに風が吹いて来た
みんなかさを前の方にかがめる
まわりの草木がざわざわしている
よその家は干し物をとりこんでいる
雨戸をしめる音も聞こえてきた
ぼくたちは家に急ぐ
だれも話などしない
自分たちの家が見えた
「ああよかった」と思った

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滝 二年C組 開発紀美子 1962年

どうどうと
滝が落ちている
どこから流れてくるのか
わからない
じっと見ていると
すいこまれそうだ
あの滝にうたれても
たおれないような人に
私はなりたいなあ

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夕方の川 二年A組 小沢愛彦 1962年

ぼつぼつ日がくれ始めた
つりをしているもの
もう二人になった
牛を川原につれてきて
草をたべさせたり
体をながしてやったり
めんどうをみている
魚はぴょんぴょんはねている

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朝 二年C組 小沢秀 1962年

ココケッコー にわとりがなく
朝だ 朝だ たのしい朝だ
太陽が東の空から登る
霜がとけてゆげがあがっていく
今日もみんな元気で働く
コココココケッココココ

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2009年11月03日

希望 二年C組 小林ツル子 1962年

 私は、小さい時から夢や希望、空想といろいろな事を思っていた。
 ある朝、私は、こたつに入ってラジオを聞いていた。何時頃だったかまだ学校へ出かける前だった。それはいま病院なんかの看護婦さんが少ないという放送で、ある病院では、百四十人の患者で九人の看護婦さんと言った。それじゃあ約十四、五人の患者に看護婦さんが一人だ。とてもたまらない。ふつうだったら四、五人の患者に一人ぐらいの割当だと思う。なかなか給料がすくないとか、むずかしいことを言って、なりてがないそうだ。高卒だと三年、中卒だと七年も勤めないと看護婦さんになれないそうだ。それで准看護婦さんを助手として使っているのだ。
 私は、それを聞いて、「看護婦さんになろうかな」と思った。いろいろ空想してみたが、やっぱり私には似合わない職なのであきらめた。
 その日、学校から帰って新聞を見た。やっぱり就職のことがきになり、その欄を見た。お手伝いさん、女工員と、まあいろいろな職が書いてあった。お手伝いさんい行こうかなと思ったが私の性質にはちっとも合わない。でもまだたくさん新聞にも載っていない会社もあると思った。私は先生の方へは進学としてあるが、模擬テストなんかから見たらぜんぜんうかる見込みはない。テストなんかして悪いときなんか勉強をやろうと思っていくらかやるが、ふだんはやっていない。
 この間は、問題集を買ってきてまだ今は一週間しかたたないからあきないでやっているが、、一、二ヶ月たつとぜんぜん手をつけないで本箱にしまっておくようにならなければよいが……。
 なにしろ進学したい。みんながどのように勉強をしているのかその方法が聞きたい。
 いく人かの子に聞いたら、夜やるのだそうだ。
 私はたいがい外の明るいうちにする。夜やりたいが、すぐねむくなって、その上心細くて起きていられない。これでは進学は、ほんとうに希望だけになってしまう。
 私たちの組には毎日最低二時間もしている子がいるそうだがそれを二年も続けたら、私みたいな子とは大変違いが出来ると思う。
 もし私は、進学して高校を卒業したら会社員になって立派に働きたいと思っている。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』13号 1962年(昭和37)3月
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2009年11月02日

七夕祭 二年A組 初雁寿義子 1961年

 嵐山発二時の電車で小川にいった。小川の町も、今日はにぎやかだった。私たちは、一廻りしようといって、駅前から見始めた。商売などしている家は、とくにきれいにかざりつけてあった。たくさん知っている人も来ていた。道のかどには手品などのみせものがあり、いっぱい人があつまっている。一廻りするにも時間がかかった。テープなどが下の方まで下がっているので、みんなさわったりしていつもひらひらとゆれている。近代化にちなんでロケットなどもかざってある。今年の七夕祭は天候もよく、ほんとうによい日であった。
 もう日がくれて花火がなるころになった。私たちは電車のまどから花火を見ながら帰った。

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2009年11月01日

けんか 二年A組 新井君代 1962年

仲の良い友達と
けんかした後
さびしくてしかたない
おとなしく
ごめんねとあやまろうと思っても
その
ごめんねの言葉が出ない
ただ
その人の行く先を見つめているだけ

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朝のおつかい 二年A組 瀬山千恵子 1962年

まだうすぐらい朝
自転車にのって
おつかいに出た
朝の空気を胸いっぱいに吸いこむと
とてもいい気持だ
ベルを鳴らしたら
「チリリン。チリリン」と
朝の空気の中に
ひろがっていった

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朝 二年A組 斎藤寿夫 1962年

目がさめた
でるのは寒い
かあちゃんは
口ずっぱく言っている
あと一分一秒でも
とうとう起きた
ねまきのすきまから
すうすうと寒さが
身にしみた
おもわず顔に手をやった

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かあちゃん 二年C組 杉田千恵子 1962年

どうして私の家だけいそがしいのだろう
みんなの家では遊んでいるのに
やっぱり人手がないからだ
かあちゃんがいればいいなあ
こう思ってもしかたがない
死んでしまったのだもの
いそがしいいそがしいといって働いているが
なかなからくにはならない
あと幾年たてばらくになるだろう
その幾年かと言う年が
過ぎ去るのには苦労がある
その苦労こそ かあちゃんがいれば
やっぱりかあちゃんがほしいなあ
かあちゃん!かあちゃん!

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暗い夜 一年D組 杉田広吉 1962年

自転車に乗って
 おつかいにいった
遠くの山がぼうっと見える
遠くのあかりも見える
おつりをにぎって
帰ってきた

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きり 一年D組 斎藤エ夫 1962年

けさ学校にいくとき
学校がきりにつつまれてまるで天国へ来たようだった
学校は白いきりの中で
宙に浮いているようだった
みんなきりの中に消えていった
しかしぼくが近づいていくにつれて
学校はエレベーターのように
だんだん目の前にあらわれた

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いちょうの木 一年B組 忍田みよ 1962年

いちょうの木はだまっている
校庭のすみに立ったままいつまでも
いちょうの木はだまって
私たちをみつめている

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水たまり 一年A組 滝沢幸子 1962年

登校する道に大きな水たまりがある
自動車が
水面に変わった影を作ってすぎさる

自動車がきた
みんな両わきに分かれる
自動車は
白いしぶきを上げて去って行く
自分の影をこわしながら……

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母 一年B組 内田岩夫 1962年

母さんは あせっかきだ
朝からあせをかいている
みんなのせんたく、食事、畑仕事
母のいう事を聞かないと
『困った子供だ』となげく
ちょっとおとなしくするとよろこぶ

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2009年10月31日

夜道 二年C組 小林朝光 1962年

テレビを見に行った
暗い暗い星もない夜だった
かい中電灯で径を照らしながら歩いた
わきの竹やぶでガサ!という音がした
あわてて走り出した
走っているうち家の灯が見えて来た
ああよかった

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山 二年C組 内田清司 1961年

遠いむこうに
くっきりと浮んだ秩父連山
まっ青で
長々として
すみきった空気をいっぱいすって
英雄だといわんばかりに
じっと俺を見ている
いつも俺たちを守ってくれる山
俺はそんな山がすきだ

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夕立ち 二年C組 野村八重子 1961年

むし暑い
せみがじいじい鳴いている
遠くの方でゴロゴロと雷が聞こえる
家では
ほしもののとりこみに
かけまわる親子たち
やっと取りこみおわったら
雨がえんりょなく降ってきた

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あせ 一年D組 中島けい子 1961年

おかぼ【陸稲】の草むしり
風は少しもない
あせは目にしみ
口の中にも入る
ぽたぽたおちて
畑の上にしみた
頭がボーとなって
思わず立ち上ってしまった

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2009年10月30日

幼い時の思い出 三年C組 大野峯子 1962年

 母と私、それに隣のおばさんと日美子ちゃんで青鳥号に乗って買物に出かけた。車内中、車掌が私達の所に来て、どうか私の室にマイクがありますから、日美子ちゃんと私に歌ってくれと言われてしまった。母につつかれて二人はスタスタと車掌室に入り込んでしまった。車掌はにこにこした表情で「では一人ずつ名前を言ってから歌って下さい。」と、言われたので、日美子ちゃんがさきにうたい出した。私は日美子ちゃんが歌っている間、車掌室から首を出して日美子ちゃんの歌をきいていた。とてもおもしろかった。つぎに私が歌い終わると、二人が車掌室から出ると客は皆腰をふかくかけ直った。きっと小さい子なので歌が途中できれてしまわないかと心配していたらしい。
 これは行きながらの出来事だった。帰りには又たいへん。途中の駅で電車がとまり、ドアがあいた。二人は、母の顔を見ながら電車からおりたり乗ったりしているうちにドアがしまってしまった。二人は青い顔をして泣きだしてしまった。そこへ駅員が来て二人にいろいろ聞いて電車に乗せてくれた。母たちはつぎのホームで待っていてくれた。でも小さな時はとってもおもしろかった。

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東上線の話でしょうか? 「青鳥号」という電車はなんでしょう? 教えて下さい。
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2009年10月29日

最後の夏休み 三年C組 滝沢日出子 1961年

 義務教育最後の夏休み、私達三年生にとっては大事な時期である。この休みで今までの一、二年生の基礎をしっかり覚えこんでおかないと後になってつまずいてしまう。明日からは、明日からはと思い、いざ本を広げてみると長く続かない。八月の中旬まで毎日運動練習で学校へ行ってたので、休みの気分はいっこうに出ない。試合も終ると今度は勉強一方になるわけだが、夜は夜ですぐ目を閉じてしまうしまつ。又昼間は昼間でだらだらして、する気にはなれない。規律正しい生活と言うものが成り立っていないことに、今年は人数が多いと言うのにいつになったら本気でやれるか、自分自身と言うものがいやになってしまう。床についてもみんなの勉強している姿がまざまざと頭に浮かんではなれない。「そうだ」と思うが気ばいあせってやっぱりふり出しにもどるばかりである。こう思っているうちにも時間はすぎていくばかり。休みもあとわずか。ある日、近所へ内職が来て、してくれと頼まれたのですることになった。でも内職と言う事は初めてなので見当もつかなかったが、し方を教わったら案外簡単であった。これは少女雑誌の付録につけるおて玉を作るのだが一個九十銭、十個で九円、百個九十円と頭で計算しながら作るのだが、なかなかはかどらない。一日百五十個から二百個作れます。
 今日で三日目、手先もだいぶなれて来たので多く作れるようになった。一日、一日が楽しみである。しんぼう、しんぼう、何事も努力の結晶の様なものである。
 夏休みの反省として、まずよく遊んだと言う事はたしかだ。後でもたらす効果は大きいものであろう。でも内職したと言う事は、私にとり初めての体験であったため、大変役に立ったと思う。

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2009年10月28日

アルバイト 二年B組 深沢明子 1961年

 毎日毎日があきてしまうので、友達の節ちゃんと唐子の花火工場に行くことになった。毎朝七時半に菅谷を出ます。むこうへ着くのが八時ごろです。仕事は線香花火に白い紙を巻きつけるのです。一日中机に向って座っているので足がしびれて仕方有りません。一日の日給は別に決まってはいませんが、千枚巻けば五十円です。最初の一日は千枚位しか巻けませんが、なれてくると一日に二千枚から三千枚まけるようになります。今日でまだ四日目です。工場から家に帰って来るとほっとします。たったの五十円をかせぐのにこんな思いをするのかと思うと、これから先がうんざりします。この暑いのに父も汗水たらしてもって来てくれる金を、私達がやたらにむだ使いをしては申しわけないと、つくづく思いました。十時と十二時と三時に休みがあります。三時休みには必ずすいかがでます。一緒にはたらいているおばさん達は、ろくに休みもしないで夢中になって働いています。節ちゃんも私よりは少し早く行ってるせいか、一日に三千枚位まきます。唐子は野菜や果物がたくさんできるせいかピーマンなんか菅谷で買えば十円で四個位しかこないのに、唐子では十円で六、七個位きます。今機械が故障しているので、三日休みです。家にいても姉とけんかばかりしているので、母にいつも言われます。「喧嘩するひまがあるんならば、勉強をする気でもおこしなさい」私も早く大きくなって、父や母にのんびりしてもらい、たまには湯泉にでもやりたいと思います。
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2009年10月27日

母がいない時 一年B組 根岸洋子 1961年

 私の家は七人家族です。ある日、お父さんが「小川の方はもうおせっくだなあ」と言った。私が「妹をつれていったら」と言うと、父は「行ってもいい」と言った。つぎの日は日曜日でした。お母さんは、実家の家にいくというので朝からうれしそうでした。九時三十分頃、お母さんはしたくをしていました。私が母の髪をゆってやりました。私は人の髪をゆうのが大好きだからです。母は十時の電車でいってしまった。残ったのは四人でした。三人いってしまうと家はとても静かです。夕方は夕食のてつだいをしました。食後はあとかたづけをしたり茶わんを洗ったりしました。それからテレビを見たり、ふとんをしいたり、お風呂にはいったりして、ねようと思ったら、父がまだテレビを見ていました。「朝早いんだから、もう、けすよ」というと「洋子はおっかねえなあ」と言いました。よく朝、四時半になると、めざまし時計が「ジリジリ」となりだした。私はあまりねむいので時計をふとんの中に、いれてしまいました。
 まだなっていたので、しかたなく起きた。おばあちゃんはもう起きていました。私はいそいで、ごはんの下に火をいれた。五時になってから父を起こしました。ねむそうだ。歯をみがき顔を洗いごはんを食べていました。私はその間に弁当をつめました。おばあちゃんが、ちゃわんやあとかたづけをしました。父が会社に出かけると、私は、すぐふとんの中にとびこみました。一晩母がいないだけで、なかなか大変です。私はいまさらのように、母の毎日の生活が、大変であることを、知らされました。もう少し、これからは、母に協力して、私に出来ることなら手伝ってやろうと思います。

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