●吉野孝平『旅行記』 3 鴻巣、大宮、浦和、戸田橋(荒川・県境)
●吉野孝平『旅行記』 6 日比谷公園、増上寺、泉岳寺、東京市中
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●吉野孝平『旅行記』 3 鴻巣、大宮、浦和、戸田橋(荒川・県境)
●吉野孝平『旅行記』 6 日比谷公園、増上寺、泉岳寺、東京市中
桑摘みに行った。
朝霧の中を。
眠い目をこすりながら。
ポチポチと一葉一葉摘む。
川の音を聞きながら、
せみのなき声を聞きながら、
まだ露のついている桑の葉を、
ポチポチと摘む。
太陽はすでにのぼって、
どこもかしこも照らしている。
力強い真夏の太陽の下で
ポチポチと桑を摘む。
耕うん機に積んだ帰り
以前のねむけもさめ
偉大な自然をながめながら、
さっぱりとした気持ちで家へ向った。
※『むぎぶえ』19号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷小学校、鎌形小学校、七郷小学校、菅谷中学校、七郷中学校の児童・生徒の作品の目次です。
●ままごと すがや一ねん ほそやけいこ
『青嵐』19号 嵐山町立菅谷中学校 1968年(昭和43)3月発行
●卒業の門出を祝う 菅谷中学校長 大野武雄
■『青嵐』19号 嵐山町立菅谷中学校 1968年(昭和43)3月発行
●課題作文「幸福について」 三年A組 石松佳代子
アルセーヌ・リュパン。それは、神出鬼没の怪盗、城館やサロンしか荒さないなぞの男であり、また、変装の名人であると同時に、名探偵でもある。奇想天外な紳士でした。
しかし、そのリュパンを、向こうにまわして、大活躍をする名探偵が、いました。その名を、シャーロック・ホームズと、いいます。
ぼくは、この物語を読んでみて、非常におどろきました。その内容は、次にあげることです。
まず、この物語は、リュパンが、ジェルボア氏の古机の中から、宝くじの当たり札を発見し、その金額、つまり百万フランのうちの半分を、まんまと手に入れたことから、始まった。しかし、この物語の中に、リュパンが、古机がほしくて、それを手に入れたが、その中に偶然宝くじがまぎれ込んであったと、書いてあるが、ぼくのへぼ推理では、こう思います。
リュパンは、初めから、宝くじの当たり札が、机の中にあることを、知っていて、盗んだのだろうと、思うのですが、どうでしょうか。話は、変わります。
それから、リュパンは、オートレック男爵から、青いダイヤモンドを、盗むことに、成功した。だが、このダイヤ盗難には、いろいろな、なぞかかくされていた。フランスの名探偵、ガニマールも調査したが、何一つ証こは、なかった。
ぼくは、こうなると、いよいよ名探偵ホームズの登場だな、と思い、次のページをめくった。すると、思った通り、ホームズ登場だった。それで、ホームズはあるレストランで、リュパンと、ばったり会って、それぞれ、妙な約束を、かわした。それは、次のような内容です。
ホームズは、「君を、きっかり十日のうちに、逮捕する。」と、言うのだが、いっぽう、リュパンのほうは、「むりです。……むりですよ。」と。
ぼくは、このあたりまで、読んでくると、もう、どちらが、勝っても負けてもいい。ただ、もっと先を読みたい心境になってしまった。それで、その結果はこうだった。
ガニマールと、ホームズたちが、リュパンを、ある一室に、閉じ込めた。リュパンは、つかまることを知らなかった。そう、ナポレオンが、「私の辞書には、不可能ということは、ない。」と、いうことと、同じ意味だと、思う。そして、リュパンは、つかまった。と、思うのも、つかの間に、形勢は逆転した。
ホームズが、ロンドンに帰ろうと思い、列車に乗り込んだところへ、リュパンが、見送りに来ていたからだった。
これで、この物語も、幕を閉じるわけだが、この本には、この物語のほかに、もう一つ、「ユダヤのランプ」という物語が、のっているので、その物語を読んでみようと思います。それに、これから、推理小説をどんどん読んで、推理力を養っていこうと、思っています。
ああ、私はよかった。こんな恵まれた生活の中に生まれてきて。ほんとうに心から、この豊かな生活に感謝しなければならない。
そんな私から思えば、この話に出てくる人々は、なんてかわいそうなんだろう。幼い時、父母を失ってしまった、かわいそうな孤児。一人もみよりがないという孤児など、貧しい人々ばかりの、苦しみ、そして悲しみを描いている。
私は、この本を読みながらも幾度となく、胸のつまるような思いになってしまった。今まで私は、何冊かの本を読んできたが、この本ほど、強く強く感動した本は、それほどはなかった。いや、それどころか、これが初めてだといってもいいだろう。
貧しい生活を送っている、ジェープシキンは、みよりのない年とった人である。もとは役所で清書専門にやっていたが、今ではほんとうに貧乏になやんでいる。でも、そんなことはいっこうに気にせず、苦しみにたえて明るい気持ちで励んでいる。きっとジェープシキンは、このうだつのあがらぬ仕事にもほこりを持っているにちがいない。この気持ちは、ほんとうに尋常ではない。私も、いずれはあるところで働かねばならないが、そこがどんなところであろうとも、ジェープシキンのように、ほこりを持ってその仕事にとりくんでいきたい。
ジェープシキンのゆいいつの楽しみは、ワーレニカとの手紙の交換であった。ことわざにもあるが、血のつながりは水のように薄い二人であったが、おとうさんのいないワーレニカには父のように感じられたのにちがいない。また、ジェープシキンが、ワーレニカに手紙を出したのも、父性愛というものが、ジェープシキンの心を働かしたのに、ちがいない。その手紙の中には、あらゆることが書かれてあり、ジェープシキンの貧しい暮らしのようすが、ありありとわかる。
アパート住いのジェープシキンは、その中でも一番安い、ちっぽけな部屋に住んでいた。しかし、ほかの人達は、みんな、立派な部屋に住み、けっこうな暮らしをし、いつも、お茶は飲みほうだいに飲んでいたが、ジェープシキンは、そのお茶さえ、ろくろく飲めなかった。
この時、私は、感じたのだった。人間の心の貧しさを。他人のために、みえや、ていさいを考えて、お茶を飲むという下劣なおこないを。世間体ばかり考えているなんて、ほんとうに貧しい心を持っている人たちだ。私は、そんな気持ちが、ほんとうに、がまんできなかった。
いくら貧しい暮らしをしているジェープシキンでもワーレニカだけには、むりをしてゼラニウムやキャンディを買ってやるのだった。でも、そんなものを、買うお金でも、ジェープシキンにとっては、大金であったろう。そんなことから、どれほど、ワーレニカが、かわいかったかが私には、よくわかった。
ジェープシキンには、ゴルシコーフという友達があった。この人は、罪もないのに犯人にされてしまったが、うたがいがはれて、家に帰ることができた。罪をゴルシコーフになすった大金持ちの商人は、
「私の名誉は。名誉。評判はどうなるんだ。」などといっては、それを何度もくりかえし、最後には泣いてしまった。
私は、ここのところを読みながら、ほんとうに腹がたってきた。なんと、みじめな気持ちであろう。自分の名誉、評判のためにだったら、どんなに悪いことでもするという、気持ちは、私にはゆるせられない。
私は、この本を読みながらも何度も考えた。いったい、お金もなく、親もない人たちと、お金持ちで、立派な家に住み、自分のことばかり考えていて、そのためだったら、どんな悪いことでもするという人とではいったいどっちが貧しいであろう。でも、その問題はすぐに私には、わかった。やっぱり、どんな立派な暮らしをしていても、心のきたない人がほんとうに貧しい人であろう。私は、そんな人間にだけはなりたくない。でも、どうして世の中で、かくしておかなければならないことを、なぜ、どんどんほり出して書くのだろうか。でも、私はこの本を読んで、精神形成期にある私たちにとって、本当に知性と豊かなヒューマニティーを養うことができた。
老人が見る夢は、いつもライオンの夢だ。老人は、妻はいないが、友達はいる。友達と言っても一人の少年だ。少年は、いつも朝と夜老人の世話をした。
少年は「老人がよっぽど好きだったのだろう」と思った。それは、四十日間一匹も魚がつれなかったので親の言いつけで、ちがう舟に行ったもののほんとうは老人といっしょに漁をしたいと思っていたのだ。
老人は、八十四日間もの長い間、漁をしても一匹もつれる事ができなかった。
だが老人は希望をすてず、八十五日目「今日は自信があるよ」と少年に言っていつもより沖へ出た。昼頃大物が針にかかった。この時老人は「何て言っていいかわからないほどうれしかったろう」と思った。
それから三日間老人は、気を失いかけたり、つなで手を切ったりしながら大格闘をして、やっとの事で魚をやっつける事ができた。その時老人の胸は「うれしさでいっぱいだったろう」と思った。
老人は、魚を小舟にくくりつけて港へと向った。よほどうれしかったのだと見えてまだ売らないうちからお金の計算をしていた。だが、海は老人に、一時は味方したもののまた、老人の行く手に海では一番の敵さめが待ちうけていた。さめは何匹もおそって来た。老人は、二・三匹は殺したが、三日間ほとんど寝ていないので非常に疲れていた。だが老人は、最後まで戦った。でも結局は、さめにみんな食われて白い骨だけになってしまった。老人は「これが夢だったらよかった」と言った。八十七日目にやっとの思いでとらえたカジキをさめに食われてしまったのだ。老人の胸は、「はりさけんばかりだったろう」と思った。
老人の辛抱強いのには感心した。
「海も老いた人に、こんなにまで意地悪をしなくてもよかったのに」と思った。
私が、赤毛のアンを読んで一番強く感じたところは、レイチェルが自分でおき忘れたブローチをアンが盗んだといってせめたてたところです。
アンは自分が盗んだのではないといったのに、レイチェルはアンの言葉など耳にもいれずにアンのせいにしてしまった。アンが自分が盗んだんだとはくじょうすれば、ピクニックにいかせてやるといったレイチェルの言葉を信じて、うその告白をしたところ、レイチェルは、ピクニックどころかアンを部屋にとじこめてしまった。
レイチェルはマシューに言われて、もう一度自分の部屋の中をよく見ると、なくなったとおもっていたブローチがレース糸にからまってあったのです。
レイチェルは、ブローチがあったので、アンをピクニックに行かせてやりました。でも、これが私であったら自分を犯人にしたレイチェルをうらむのに、アンはこのでき事をわすれてしまったように、喜んで立派な態度を示したので、見習いたいと思った。
またアンは、自分の赤い毛を嫌っていたのにふとした不注意から、みどり色の毛になってしまって学校もろくろく行かなかった。
アンが頭から行商人を信用したせいもあるが黒かみになるとうそをついて売りつけた行商人のほうがもっと悪いと思う。
だって、そのために長くて赤いかみをみどり色に、また短く切らなければならなくなってしまうし、ジョシーには、「まるでかかしみたいね」などとひどいことをいわれたりしたからです。
でもアンは、じっとがまんをしてだまってしんぼうしていられたのでかんしんしてしまった。また、ミニーが喉頭炎にかかったときもアンの手ばやい処置によって生命を救ったこともあった。医者がきたときには、ミニーはずっとらくになりぐっすりとねむっていて、さしせまった手当の必要はなかった。
アンは小さい時、喉頭炎にかかった子供を世話したことがあるといっても、私がアンのみであっても、医者を呼びにいくぐらいで、その他の事はなにひとつ出来ないであろう。
その他たくさんの失敗などもあったが、アンはいつも夢と希望をもって強くいきていくので私は、大好きです。
主人公の八歳の少年良平は、鉄道工事のトロッコに乗ってみたくてしかたがない。ある日、土工と一緒にトロッコを押すことができたが、あまり遠い道を来すぎてしまい、夕暮になり、山道をひとりでかけもどらなくてはならなくなった。泣きたい心を必死にこらえて、良平は無我夢中で走る。
主人公の良平は、トロッコにどうしても乗りたいという心は、自分にはよくわかる。自分も何かしようとしても、出来ないことがある。が、そのやりたいことは絶対やるということは、良平に、にている所かもしれない。
この作者は、良平の心理をあざやかに描き出している。自分は、これを書くことがへたなので、作者のように良平の心理をあざやかに描き出すことができない。作者は良平がトロッコに乗りたいという気持をよくあらわしている。自分はこの短編小説を読んでみて自分も良平に、にているので、なかなか小説の意味がよくわかった。
アンの青春という本は「アン」という長い物語の二冊目の本です。私は一冊目の「赤毛のアン」を読んでいなかったので、主人公などもあまり良くわからなかった。主人公は「アン・シャーリー」という少女です。この少女アン・シャーリーは、生まれるとまもなく両親と死に別れ、孤児になってしまったのです。それにアンは真赤なかみの毛をしたそばかすだらけの、みっともない少女だったので、あまり人にかわいがられないようでした。なんて、みじめな少女なんだろう。
アンが十一歳の時にエブオンリー村の農家の、マシュウとマリラという老兄妹に、ひきとられた。それからアンは幸福になり始めた。
アンはマシュウ老人にとてもかわいがられていましたが、老人はいつしか死んでしまい、眼の悪いマリラとアンが過しはじめた。そのためアンが大学へ行けるはずが、行けなくなってしまった。そして小学校の先生として、二年間過しました。二年間アンは、教師として立派に働きました。アンは、生徒一人一人を愛し家では、アンと同じような身の上の子供たちを愛しました。
アンはとても夢想することが好きでした。私も夢想はとても楽しいことだと思う。自分の好きなようにあれこれと考える、なんと楽しいことだろう。
最後にアンは念願の大学へ行けるようになり、アンは、よりいっそう希望と夢がいっぱいになってきた。
私はこの本を読んで思うことは、いくら貧しくても夢や希望を持っていれば、どんなことにあっても、やってのけることが出来るということのように思う。
私もよりいっそう大きな夢や希望をもちたいと思う。
この物語は、小さな少年を主人公とした物語です。少年の上に、いろいろな出来事がおこります。が、この少年は、自分なりにいっしょけんめいに努力し、かべにぶつかって、それを乗りこえていくことをくわしく書いてある物語です。
私は、こんな少年の姿に、とても感嘆しました。少年は、すなおで、やさしく、むじゃきな性質でその行動は、まわりの人達を楽しませ、感心をさせています。こんな事は、大人の人には、まねの出来ないことだなと、思うこともたびたびありました。
少年の身の上は、大変かわいそうなのですが、そのかなしみに負けないで、いつも明るくしているところなどは、やはり、少年のおかあさんの力だと思いました。
ある時、イギリスの伯爵のおじいさんから、使いが少年とおかあさんのところにきました。おじいさんはとてもえらい人です。家も立派で、お金もたくさんある人です。そこからの使いでした。使いの人は、少年を迎えに来たのです。少年がこのおじいさんのあとを継ぎ、伯爵になるようにということでした。が、このおじいさんは、おかあさんを、とても嫌っているのだろうかと思うほどです。使いの人の言うとおりに、イギリスへ行くことになりました。でも、少年とおかあさんは、別々な家に住まなくてはなりませんでした。おじいさんが、おかあさんを嫌っているからです。私は、このおじいさんが、にくくてしょうがありませんでした。
私だったらいくら嫌いな人でも、親子を別々にくらさせなかったと思います。
少年も、おかあさんと初めて、別々にくらすのですからとても、さびしかったと思います。でも、少年は、そんな顔をしませんでした。そして、この頑こでわがままなおじいさんと仲良くなろうと、いっしょうけんめいでした。私には、まねのできないことです。少年がいっしょうけんめいに努力したために、おじいさんの性質は、前とすっかりちがい、別人のようになりました。
前では、村の人に嫌われていたおじいさんも少年のおかげで、信頼されるようになったのです。とてもいいことだと思いました。
それに、おかあさんをこの家によぼうとおじいさんがいいました。こんなにまで、性質を変えた少年の努力は大変だと思います。
おじいさんも、少年のむじゃきな行動、熱心さに感心させられることがあったのだと思います。少年の性質で村の人たちを救ったのだと思いました。
この物語は推理小説です。推理小説というものは作者と読者のちえくらべだと解説に書いてありました。すぐれた作者ほど、読者の考える事よりも、一歩も二歩も進んだ考えを持っているのです。そうでなければ推理小説独得の、あの何ともいえない不安と期待の入りまざったような感情は生まれてこないと思います。
この物語では、ロジャーズと称するウイムジイ卿が、世間の人々に、死んだと思いこませ、ブラック・マスク団にのりこんで行きます。なんといっても、ウイムジイの頭のよさがみものだと思います。それに正体がばれ、殺されかかっても、平然としている度胸のよさ。よほど、自分の計画に自信があったのだと思います。そもそも、ブラック・マスク団というのは、団長しか団員全部の正体を知りません。それが団全滅の道へ導いたのだと思います。そのことを知っていたウイムジイ卿は、それをうまく利用して団にちょう戦したのです。彼は、団に乗りこんで、団員の名前、写真、指紋を調べあげて、金庫の奥部屋にしまっておきました。そして、金庫の番号を、二年も前に警察に手紙で届けてあるのです。だから、団長が彼をあやしんで手紙を調べても、二年前の手紙まで気にするはずがありません。なんて、ウイムジイ卿という人は、すばらしい想像力をもっているのだろうと、思いました。団員の正体がばれれば、団は全滅。だから、だれかウイムジイ卿の家へ行って、それらの物をもってこなければなりません。しかし、団員が行ったのでは、その人に正体がわかってしまいます。そうすると、残るは団長。団長が行かなければなりません。しかし、団長にそんな危険な橋を渡らせるわけにはいきません。でも団長の命と、数多くの団員の命とでは、どちらが大切か。きまっています。でも、ウイムジイ卿だってそんなばかではありませんから、ちゃんと手は打ってあります。団長が彼の家にしのびこんで、金庫の奥部屋に入り、団員の名前や写真などの入っている、金庫を手にすると、同時に奥部屋の戸がしまり、中からは決して開かないようになってしまう。そして、ウイムジイ卿も助かり、団は全滅してしまいます。ところで団長はどうなったかでしょう。そのままで、数時間も金庫の奥部屋にいれば、窒息してしまいます。彼が、気絶している所へ、ウイムジイ卿らがかけつけ、命はとりとめました。さて団長の正体は誰だったでしょう。彼の正体は死んだと思われていた、怪盗モリアーティーという人は、世界をまたにかけての、大どろぼうだったのです。私だったら、少し残酷かもしれませんけどそんな人は死んでしまった方がよいと思いました。それなのになぜウイムジイ卿は、大急ぎでかけつけ、彼を助けたのでしょう。そのわけは、ウイムジイ卿は、彼を助けて正しい裁判で、かれをさばきたかったからです。私は読み終わって、自分のあさはかな考えを、反省するとともに、作者の進んだ、なおかつ正しい考え方がとてもすばらしいと思いました。
昼休みに、図書室へ行った。その頃冬休みに入る時だったので、ちょうど感想文の宿題があったので、たまたま引き出した本がこの本だった。おもしろそうだなと思って、ちょっと読んでみたところ、思ったとおり読みやすい本だったので、本屋へいって「秀吉の少年時代」を買ってきて、やったのがこれです。
ちびの小猿とののしられている子供がいた。それがこんなおかしな人間が、秀吉であるとは、信じられなかった。月日が流れ、すくすくと伸びていく小猿、これは秀吉の幼少の時の日吉丸である。
日吉丸は元気な子供であった。近所の子供をあつめて、ぼうきれを持ち、いくさのまねごとをやるような毎日が、元気な、そして日吉丸は楽しくてたまらなかった。だが、こう感じた。そんなに武士のまねばかりしていては、ほんとうの人間、真の人にはなれないのではないかと。知恵をまし、体力もついてきたころ、親のすすめで、寺へ小僧となってこもった。働くことは嫌い、いたずらは、しほうだい、おしょうさんが何と言ってもきかなかった。かげにかくれてはこそこそと相手のすきをねらっては、悪いことをしていた。おかしいと僕は考えた。あんなえらい人の少年時代が、こんなぶざまな姿で、僕の目前にあるのはどうしても考えられない。
日吉丸は寺をとび出し親の元へ帰っていった。なが続きしないことには、僕もあきれた。次にも日吉丸は親のすすめで職人となった。親は小僧がだめならと思ってやったのにそういない。しかし、結果は同じだ。次々とかえ、長くて二ヶ月、短い時は二週間ぐらい。安定性は保たれなかった。職人はだめ、日吉丸はもう家にはもどれない。一人寂しくむしろをしいてある橋の上にねていた。「小僧じゃまだ。」という声がかかった。日吉丸あんな状態であったのに、人がかわったようになっていた。そこへ来たのは蜂須賀小六であった。その時の二人の会話は、日吉丸の日頃の勇気や積極性を物語っていた。僕はその会話に、うたれた。小六がああ言うとすぐに、日吉丸が口答えして反抗する。これが勝利へのどだいであったであろう。日吉丸は、勇気、根性をみこまれて、小六に従うことになった。それからも努力、努力を重ね上へ上へと伸びていった。幼少の時の一節一節を読み返してみると、ほんの裏側にあるものが読みきった後でないとつかめぬものがあった。悪の中の良さ。こう言うとおかしいかもしれないけれど、僕には、こう思えた。
この物語は大怪盗ファントマと名探偵フランドールのいきづまるような戦いが、書かれてあった。
この大怪盗ファントマというのは、殺人事件を起こしたり、また宝石、金塊を盗むなど、多くの犯罪をおかす。しかしまだ誰もその姿を見たものがないという不思議な盗賊。
この大怪盗ファントマをつかまえようとするフランドール。
フランドールは頭はよく推理も大変しっかりしている。フランドールは大探偵ジェーブに教えられ、時には助けられ、だんだん大怪盗ファントマの正体をつかんでいくのであった。
金もうけのためには、なんでもしてしまうファントマ、こんな人間は一刻も早くつかまえてほしいと考え、ぼくもフランドールの立場になって読んでいった。
誰にでもやさしく親切なフランドールは、誰からもすかれていた。幾つもの危険をおしはらり、ファントムをつかまえようと一生けんめい進んでいった。ぼくはこんなフランドールに感激してしまった。
そして、このファントマの正体は、みんなから信用されていた大銀行の頭取、ベルベエとナントイユの二人だった。ぼくはまさかと思った。同時になぜ大銀行の頭取たちが、そんな事をするのかわからなかった。
この本を読んでみて、なんだかきびしい世の中について、一つ教えられたような気がする。そして怪盗ファントマのように外見は親切で、しっかりものだが心はまるで逆の暴君。こんな人間は一人でもいなくなるように願いたいものです。
この小説「真実一路」には「真実」ということが書かれている。真実の生き方には、さまざまある。それが互いに違って生じ、悲劇が深まっていったことが、真実一路によって描かれていると思う。
私の感動したことの一つは、運動会の対抗ランニング競争です。
義夫は、頭は良くなかったが、かけ足が速かったので、選手に選ばれた。それは、五年と六年の競争であったので、五年が勝つことは、めったにない。そこで秘策を練った。一人がまっ先に全速力でかけ出せば、六年生がそれを全速力で追うだろうから、途中でへたばる、そのところを他の人が抜くということだった。その犠牲になるのが、義夫に決まった。
そして、いよいよ競争が開始された。秘策通り、トップを切っているのが義夫だった。何度も何度も追い越されそうになる。ところが、義夫はさらに頑張った。最後に「ちくしょう。」と思った。そして、もうれつなラストスパートを出した。
こんな場面を頭の中に浮かべていると、なにか力強さが感じられた。それと共に、だれが何と言おうと、自分の気持ちに正直にしたがわなければおさまらないという気性を、私も持ちたいと思い、反省させられた。
それから、一番、私が感動した所は、大越からの破談の申し込みがきたのがわからなかった。そして大越から手紙で知ったのが、自分には、大事なかくし事があるということだった。そんなかくし事をする義平(父)の一番いけない所で、それでこわれたのだと思った。しかし、素香から、なにもかも知らされた時、(父をうらむどころか、お礼さえ言わなくてはならなかったのだ)と思った。義平はしず子が、そんな秘密を知らないと思っているので、今までどうりやさしくした。そのやさしさが、しず子にとって、苦しかったのでした。
ここは、「真実一路」を語っているが、私にはよく「真実」ということがわからない。事実とは、実際にあったこと、ありのままのことで、それを越えた、もう一つ高い所にあるのが、真実だということです。でも、私には、このことばがよく理解できない。
この小説を読んで感じた事は、できることなら、私は私なりに真実に生きたいということです。
この本は主人公梶鮎太の幼年時代、青年時代、社会人としての門出の頃、やがて戦争から敗戦後までの壮年時の一時期といった風に年代順にそれぞれの六つの物語から書かれてあった。それと、明日の日を夢み努力する「あすなろ」の木のような人間の半生が描かれてあった。
ここには、六人の女性があらわれる。女性の六つのタイプといってもいいと思う。
まず、初めに現われる冴子は少年鮎太の心に愛と死の純粋さを与えた。これは、人生の入口に立つ鮎太に異様なショックを与えた。しかし、鮎太はその死の意味を語ることも説明もできなかった。鮎太にとってこれが生涯での最初の是非必要な経験ではなかったろうか。
次は気性のはげしい、気の強い性格の雪枝により、意気地なしの体の弱い鮎太は、この女性にきたえられていく。私は男性が女性にきたえられるなんてよっぽどの鮎太は意気地なしに思えた。しかし、鮎太はいつも成績は一番だった。ある時、鮎太は二番にさがってしまった。意気地なしのくせに、負けずぎらいだった鮎太には、自分より成績のよい生徒がいることが、とてもくやしくて、がまんできなかった。
他の教科は満点近くとれるが、体操や武道だけが落第の点に近くぜんぜんできなかった。今で言えば、がり勉と同じではないか、がり勉の意気地なしの鮎太に私は「男だったらもっと男らしくなったらどう」と大きい声でどなってやりたい。
次は、未亡人の佐分利信子である。ここでは北国の町の青春を、多くの人々の姿を描く。皆、ひのきを夢みているあすなろ達である。華やかな若い未亡人をめぐり、学生達のそれぞれの思慕や、なやみなどのその様子の表現がみられた。そして鮎太がだんだん大人になっていく、様子が描かれている。
それから、鮎太は学校を出て、新聞記者の一員となって働いた。社会の人となり、ここには清香という女性があらわれる。ここでは清香との一夜の幻想的ともいえるものを物語っている。
やがて、戦争になり、左山町介という他社の記者が競争相手として現われる。加島浜子という女性も現われる。だが、ここではむしろ、競争相手との競争の心理が主となっていた。新聞社の生活の奥の方へ一歩一歩足をすすめていく主人公の活気があった。
最後には、敗戦直後のなげかわしい、建物や城などのすたれはてたあとにおける、鮎太の生活が書かれてあった。妻子をそかいさせ、一人都会の焼け野原の上に相変わらず、記者の生活を続け、オシゲという正体不明の浮浪児の、ともいえる若い女性との一時の関係も書かれてあった。「あすなろ」とは、人間愛の象徴のようなものではないだろうか。初めに言ったように明日は何ものになろうかと努めている、多くの「あすなろ」を通じて人間の運命といったものをこの作品は考えさせてくれた。
顔は白く小さくやせている上に、そばかすだらけ。大きな口。その時の気分と光線のぐあいで、みどり色に見えたり、灰色に見えたりする大きな目。その目には、いきいきした活力があふれ、口もとは、やさしくりこうそうで、ひたいは豊かで広く、体には、すぐれた魂が宿っている少女。赤毛の少女。そう、この少女がアンなのです。アンは、しゃべることが好きで、想像力とユーモアに富んでいて、りこうで思いやりが深い少女なのです。アンは孤児院から、マシュウ、マリラのきょうだいに、ひきとられたのでした。アンのおしゃべりは、とても楽しく、マシュウはもちろん、マリラさえ、アンが次に何を言うのか、まちかまえるしまつです。私も、アンのおしゃべりを読んでいて楽しくて、おもわずほほえんでしまうことが、何度もありました。アンのおしゃべりを読んでいると、心が明るくなり、勇気がわいてくるようでした。
アンはダイアナというすばらしい友人をもち、マシュウ、マリラの深い愛情につつまれて、明るく、かしこく、成長していきました。もっとも、その間には、ゆかいな事件をつぎつぎにおこしたり、苦しいことも悲しいことも、ありましたけれど、アンはそういうことに打ちかって、明るく成長したのです。
アンとギルバートは、小さい時からの勉強の競争相手でした。二人はお互に、心の中では愛し合っているのですが、ギルバートが、アンの赤毛のことをニンジンと言った事が原因で、仲良くすることができませんでした。それは、クイーン学院に入ってからも、かわりませんでした。
やがて、アンは卒業しました。アンは、エイブリーしょう学金を取ることができました。アンは、アボンリーに帰ってきました。
アンの未来はバラ色にかがやいていました。しかしアンの周囲に不幸なことがおきてしまったのです。マシュウの死、それとマリラの目の病気がそれです。アンは、そのために大学をあきらめなくては、ならなくなってしまったのです。しかしアンは、失望しませんでした。アンは知っていたのです。未来への道に静かな幸福の花がさきみだれていることを。それはギルバートと和解できたことから、アンは知ったのだと思います。アンの生活には、いつも真けんな仕事と、立派な理想とあつい友情がありました。なにものも、生まれつき、アンがもっていたものをとりあげることは、出来なかったのです。私の生活にも、アンの生活にあったものが、ほしいと思いました。どんなに悲しいこと、苦しいことにあっても、希望を失わなかったアン。すばらしいアン。私はアンのもっていた、あつい友情、努力、たくましさ、それと、清らかな愛情、とてもすばらしいと思いました。
この物語の主人公は鮎太という十三の少年ではじまるのだった。祖母りょうとの生活は楽しいものであった。そこへ、突然やって来たのが冴子という十九歳の少女であった。自分たちの生活に一人ふえるということは、これからの生活をかえたのであった。むしろにぎやかになったとでもいうか、その冴子と云う女はやさしげのない、いじわるの子とさえ鮎太には感じたのであった。
しかし、それは、はじめの生活をみて思っただけであとの方になると、だんだんやさしくなった。私はだれでも、はじめは少しいじわると思えるのも無理ないと思った。しかし冴子はやっぱりやさしい人であるのがほんとうだったのかもしれないと、私は感じた。
冴子の評判はよくなかった。それというのも村の冴子と同じ学校へいっている二人の少女がそう村人たちに言っていたのである。私はちょっとその二人の女の子がいやであった。人の悪い所をいう人はきらいだったから。
ある日、鮎太は冴子に手紙を加島という学生にわたしというだいじなおつかいを頼まれた。加島という名はあとでわかったのだ。わたしたその帰りお菓子をもらったりしてうれしかったろう。それと鮎太にとってその加島という青年はこれからの鮎太を変えた。それはよい意味での変わり方であった。その話は鮎太に「勉強をしろということのむずかしさでいわば克己ということであって、克己はなかなかむずかしい」などといろいろくわしく話してくれた。それからの鮎太は変わった。一日中、学校へ行っている以外はいつも机に向った。
はじめ冴子はそんなこと続くものかといっていたがあまりにしんけんさに冴子もお砂糖湯を作ってくれたりして、やさしくしてくれた。ある日、冴子からの頼みで手紙をわたそうとした所、ちょうど学生がいなかったので小母さんみたいな人にわたしてきてしまったのである。
それが、数日後、冴子の顔色が急に変わって「あんた、あの手紙小母さんにわたしたでしょう」といって加島がおこっていたといった。それからだった。冴子が二、三日あけることが何回かあったのは。そしてまた、今日も冴子はおりょうばあさんにおこられていたのであった。そして鮎太もどこかへいってたのか、冴子に聞いたら「トオイ、トオイ、山の……ネムッテシマウノ、イツカ」といった。
そして冬がきたある日、心中もんが見つかったという村人の話であった。鮎太はそれが冴子たちであると思った。私もそう思ったがなるべくそうでないようにと、私は心の中でいっしょうけんめいに、いのった。それを鮎太はたしかめにいった。やっぱり二人は冴子らしい人と加島みたいだった。その時私は、はっとした。この場合鮎太はどう思ったかと思うと先を急ぐのだった。克己(こっき)ということを教えてくれた加島だったのに……。
しかし、心の悲しみよりもっと得体の判らぬしょうげきを与えていた。私はその時、ぼうぜんとしている鮎太に胸をすいこまれるのだった。
冬休みの宿題に読書感想文を書いてくるという課題が出された。
おれは本を読む事がきらいだから重い荷のように感じたが、夏休み以後一冊も本を読まなかったから、あまりいやではなかった。
そこで読んだ本が「にんじん」という本です。この本は国語の教科書の読書案内に書いたあった本で、おれは読書をほとんどしないから中二の教科書の物を理解できるかということもためしてみたかったのです。
この物語りはルナールというフランスの小説家の書いたものです。
この物語りには、ルナールの幼少の頃の体験を基にした自伝的作品だそうです。
「にんじん」彼はルプック家の次男として生まれ兄のフェリックスと姉のエルネスティーヌの三人兄弟です。彼は、赤い髪の毛をしていて、そばかす肌をしていたから「にんじん」という愛称です。
この物語りは彼の体験が多くの段落に分けて書いてあります。
しかし、この文章の内容がつかみにくいと思った。ルナールの表現の豊かな面とたとえのうまい複雑な文章だと思います。
ルナールの表現力がうまいと思った場所は「彼らはひじをついて、もぐらがほり返してふくれあがった塚を眺めそのもぐらの通り道は、ちょうど老人の皮ふにあらわれた血管のように、土の表面にジグザグと続いている。」このように、表現の中にうまくたとえを生かした所もあれば、読みながら考えさせるといったような場面「正午からは、その葉っぱは、葉というより点になって死んだようにじっとしている。そして、にんじんは、じれったくなって気がつまるような感じがしてくる。するとやがて、その葉っぱが合図をする。」というように読んだだけでは想像できないと、いったような面も非常に多い。
ただこの文章で他の文章とちがったことが書いてあると思った。
その場面は彼が父の猟に行ってつかまえてきたしょこどりを手でしめ殺す所。まだある。もぐらを殺す所もそうだし、ある日ねこを小屋にとじこめえびがにのえさにするために猟銃で殺してしまう所など、日本では常識として考えられないことでも、平気でしている。生き物を殺すということの書いてある本はあまりないところだし、人間の生活というものが生き生きと、えがきだされている。
だから普通のありふれた物語りと違っていると思う。
おれは、この本をよく理解することができなかった。その原因は普段読書をしないからだと思う。
これからは、もっと良い本を数多く正確に読んで行きたい。
私は、今までに、いろいろな人の伝記を読みましたが、この「リンカーン」は、今までのどの人より、立派だと感じた人でした。
リンカーンが生まれた時は、アメリカにまだ、未開拓地が、たくさん残っていた時でした。リンカーンが四歳の時、お父さん、お母さん、それに姉のサラとエーブは、ノップ・クリークにやって来た。今まで、ノリン・クリークに住んでいたが、土地が悪く、作物がよく育たないので、引越して来たのでした。
静かな森の中で、エーブはすくすく成長しました。
ある日突然、お母さんが悪い病気になってしまいました。それである日、死んでしまいました。その時の、エーブの心境は、きっと悲しく、さみしく、はりさけそうな気持だったと思います。でも、くよくよしていないで、元の元気なエーブにもどりました。
数日たって、エーブが森へ行った時、泉で鹿の親子が水を飲んでいるのを見ました。エーブは、父に知らせようとしましたが、鹿がかわいそうになったので、やめました。この時、とても心のやさしい少年だなあと思いました。
数年たち、エーブは、立派な若者になりました。友達と二人で町にやって来た。エーブは、「奴隷売買」という看板を見ました。それは、エーブが幼い時見た、黒人と同じような人々が売買されているのです。この時、エーブは決心しました。「この人々が、幸福に暮らせる世の中を作って見せる」と。白人が皆、エーブのような心を持っていれば、アンクル・トムのような悲劇、南北戦争のような大きな争いがなかったかもしれなかっただろう。
黒人達を救うために、雑貨店の店員、村の郵便局長、そして、弁護士になり、とうとうアメリカ第十六代目の大統りょうになったのでした。
リンカーンが、大統領になった翌年、南北戦争が始まりました。四年戦った後、とうとう北部が勝ちました。奴隷は自由になったのです。リンカーンは、どんなにうれしかったことでしょう。でも、戦争によって、多くの人々が傷つき、死んでいった事を嘆きました。そして、死んだ人々のために、ゲテスバーグの丘の上に戦死した人を祭りました。何て、心のやさしい人なんだろう。
ある晩、リンカーンがいやな夢を見ました。それは自分が死んだ夢でした。でもその夢は正夢になってしまいました。ワシントンの劇場で芝居を見ている時、暗殺されました。犯人は、戦場で負けた、南の国の人でした。負けたからと言って、リンカーンを暗殺するなんて、ひきょうな人なんだろう。
リンカーンは死んでしまってもくいない。今のアメリカ大統領がリンカーンのような気持を持っていたら、ベトナム戦争は起こらなかったかもしれない。
この本は、小川高校の田島清子という人が書いたものである。兄が買って来たので読んでみた。これは、世の中に対する批判であると私は思った。詩一つ一つ見ても出てくるものは、悲痛なさみしい詩ばかりである。彼女は人間の美しさを求めた。しかし、その美しさがつかめない、見い出せないために、死を選び永遠の眠りについたのである。私は、これを読んで、はじめのうち、なんてひねくれた人なんだろうと思ったが、よく考えてみると、この人は、人よりいっそう美しい心の持主であり、能力をもった人だと思った。
彼女は、人の考えを見つけているのではないだろうか。自分に対して、人がどんな反応をしてくれるか期待している心もあるようであった。自分の正しいと思ったことなどいっても、今の世の中では全部とはいえないが、通じるものではない。だから人間の美しさは生まれてくるはずがないと彼女は言っている。
人間は、ただ明日の生活のために働いているのでは、夢のない生活、希望までなくしてしまう。そんな所に彼女は不満を持っているのであった。そんな事が、だんだん彼女を孤独にしてきたのではないかと思う。
私はこれを読んで、いろいろな強がりをいっていた彼女が最後的に死を選ぶなんて、私には理解できなかった。これだけの作品を残しながら、非常に残念に思う。結局彼女は、彼女の思う美しい世の中を感銘することはできなかった。
しかし、彼女が最後的な結果として死を選んだことは、彼女のあやまちであったと思う。
私は赤毛のアンを読んでとても感動しました。でも言葉で表わせるような感じかたではなかったのです。どう表現していいのかわかりません。ただ、心がふるえたのです。
「アン」それは、想像する人と呼んでもよいと思います。それは、自分の頭の毛が赤い毛で、顔はそばかすだらけでも、自分を想像することによって、頭の毛は金ぱつで、顔は美しい、ということを想像していました。ですから、いつでもほがらかで、友達にも好かれていました。また「アン」はとても勉強ができました。そして、クラスではいつも一番でした。私はなぜ「アン」が一番なのかと思いました。私の考えでは、「アン」は想像を勉強にとり入れて、想像しながらいろいろなことを覚えていったのだと思います。
しかし、自分で想像しようと思ってやったのではないと思います。ただ、想像というものが「アン」の心には、いつもあったのだと思います。
悲しみになっているときも、想像はあったでしょう。苦しみに耐えているときも、想像と根性によって、それをはねのけたのでしょう。
私は、「アン」のような想像力が、あればいいなと思いました。
私は読書をするときは普通、幾日もかけて読むのですが、この本は三時間半で読み終わりました。この本を読んで、どんな人でも暖かい心を持ってその人にあたれば、きっとその人もわかってくれる日がくるのではないかなあと感じました。
ここにでてきた洋子は、始めは利己主義者でした。でも、いつしか由紀子のやさしい心が通じて、以前の洋子からは想像もできない人に変わってゆきました。洋子にかかると別に悪いことをしなくても、一度は必ずいやな思いをします。洋子がこんなになったのも一人っ子だということも影響しているのではないかと思いました。なんだかかわいそうな気もします。洋子は表面では強そうなことを言っていても、内心では、とても寂しいのだと思います。由紀子がいちばんかわいそうだと思った。洋子のたった一言で、しあわせだった由紀子は、母に甘えることすら忘れてしまった。由紀子の母がどんなにつくしても、元の由紀子にはもどってはくれなかった。この時の母は、どんなに悲しかっただろうと思った。また由紀子もだ。でも由紀子は洋子をにくんだりしなかった。それどころか、
「洋子さんは、ほんとうはいい人なのよ。」と言うのだった。ほんとうに由紀子さんて、優しい人だなと思った。こんなふうに解釈する人は少ないだろうと思う。始めは洋子がかわいそうな子だなという気もしたが、半分読み終わると、かわいそうどころか、私にはくやしくてならなかった。でも洋子の気持ちが変わった時は、うれしくてならなかった。
由紀子は私以上に、うれしかったと思う。そして由紀子が家出をしてから、母はいっしょうけんめい捜し続けた。母は日に日にやつれていった。由紀子は家出までしても、父や母のことを忘れたことはなかった。やっぱり親子だなと思った。由紀子が家出をしなければならない原因は、洋子にあった。また洋子も家出をした。でも今の私には、家出などしてなんになるのか不思議だ。子供が家出をして、学校もちゃんと卒業しないのに、仕事など思うようにできるものかなと思う。それにお金もないのに、どこに泊まるのかなと思う。
そして幾日か離れているうち由紀子は元の由紀子にかえった。家出をした由紀子は、本当に良い勉強になっただろうと思った。そして病気だった父もなおりもとのしあわせな家庭にもどった。もとの家庭にもどったことは自分のことのようにうれしい。私は、もっと自分のことばかり考えず、他の人の身にもなって考えるべきだと思った。
私も由紀子さんみたいな、やさしい人になりたいと思う。
私は、本屋に行った時なんとなく目にとまったのが「大地」という本で、国語の先生にも「一度は読んでみなさい」と言われたのを思い出して、本を手にしたが、言われたとおりこの本は、私の心になにかを与えて一まわり大きくし、大地は、父は、農民にとって命よりも大切で、日でりや大雨にあうと、人々を人間でなく動物か鬼にしてしまうほど、大きな力をもっていることを知らされた。ここでの主人公である王竜とその妻である阿蘭との夫婦は、大地をとても大切にしそして、その土地から金が生まれ、それを子供達の成長に、本人らの財産にしたのである。それから、私が大変たまげたのが阿蘭の働きぶりであった。
子供が生まれる時など一人で産んで、そしてその日畑にはってきて夫のために働こうというのである。
私は阿蘭のその行ないを見て、とうてい私にはぜったい出来ないことだと思った。阿蘭をこういう働き者にした原因は、彼女の両親達は、生活に苦しくなると自分の子供を安いお金で売ってその場をしのいだのである。阿蘭の親だけでなくそのころの中国の生活は、そうしなければ生きていけないほど苦しいものだったのである。それを見て私は、中国に生まれなくてよかった。そしてもし、私がそのように安いお金で売られ親と別れてよその家でこきつかわれ、お金もはらってくれない所へいったら、とても息がつづかないと思った。そして彼女は、ヤートウとして幼い頃からよその家で働いてきたのである。ときには、土をとかして食べたり、草の根を食べたりして急場をしのいで共にした夫婦、いや中国全体の人民の生活をどんなものかとうてい私には、想像のできないことである。
私始め今生きている人々にも、やはり土は食べられないと思う。そして、時には親は自分の子供まで食べて生きようと努力したその姿、いつかはきっと幸福はくると信じて生きつづけてきたこの人々をほめたいと思う。けれど、私の想像しているものは、そのころの中国の人々から見れば、なまやさしいことだと思う。
私はこの本を読んで私始め、今生きている人は幸福なとき、生まれてよかったとつくづく思った。
この本には、音楽を求め続けた一人の人間のたどった道がしるされている。
彼は(この本では匿名で呼ばれている)小さい時から音楽が好きだった。
高校一年の時、ブラスバンド部に入部したのがきっかけとなりフルートを担当したが、たちまちフルートのとりことなってしまった。
そのためクラスでも成績は上位だったが、下がってしまった。
彼の家は昔から続いた料理屋を経営して、父は封建的なきびしい、いわゆるガンコ親父であった。彼の成績が下がったのを知ると、「勉強を下がらせるくらいなら、ブラスバンドなんてやめてしまえ」と怒られた。
彼も負けずぎらいが爆発して、一年でブラスバンド部の部長となり、都下のブラスバンドコンクールでも一位となり勉強も以前よりまじめにやり、前の成績より上げた。
私は彼がずいぶん負けずぎらいなんだなと思ったけど、えらいなと思いました。
彼は大学へ行きたいという希望があったが、父は彼が家を継ぐ事を願っていたため、彼の大学進学には反対だった。けれども父をときふせて入学した大学だったが一年ほどで、退学しょ分となってしまった。
父がサギにあってしまい授業料がはらえなくなったためで、家具など売ったが、父は彼のフルートを売ろうとしなかった。
みかねて彼がフルートを売ろうとした時、かえって怒られてしまった。
ずいぶん、理解あるんだと思った。それに、売ればお金になるフルートを売ろうとしなかった彼の父はえらいと思う。
そのうち彼は、あるバンドに入りフルートをふいて生活費を母に内緒で渡していた。その事が父に知れると、父は許してくれず彼は家を出てしまった。
でも、私は家のためにやった事なのだから許してやってもいいと思った。
そのうち家族が説得して家に帰り、またもとの大学へ入学した。そして作曲科に入部し努力を続けていった。
かれの地味な努力も、作曲家としての実力もしだいに認められていった。そして父はついに、彼を許してくれた。「そんなに好きなら死ぬまでやれ、自分の手で新しいものを作ってみろ。」と…。
私が一番強く感じた事は、一つの目標に向って、大波が来ても乗りきって行くような彼の精神力の強さ、それに親子の強い結びつきに感動した。
そして、常に新しいものを取り入れようとする姿もつくづくえらいと思った。
「現在、あなたは幸福ですか」と、とつぜん聞かれたら、私はどう返事をするだろう。
私の思う幸福は、その場その時によって、いろいろ変わる。漢字テストで満点をとれたのが幸福な時もあるし、母といっしょに、買い物に行き、荷物を半分持つ事が幸福な時もある。
二学期に同じ「幸福について」という題で班としての意見文を、書いたことがあった。班の意見なので、全部が私の意見ではなかった。私もそうだったが、皆なも、たとえ、貧しくとも家族で協力し助け合っているなら幸福なのだ。幸福とお金は縁がないものなんだと考えていた。本やドラマに出てくるのでこれが真の幸福なのだと信じこんでいたのだろう。今は、そう考えていない。ただ人の意見をまねしていただけなのだ。よく本などでは、お金の幸福を否定しているようだが、時々、そうではないような気がしてくる。私の幸福とは、もちろんお金ではないけれど、真の幸福は、お金にあると考えている人がいるならそれでいいじゃないか。その人はお金に囲まれていればほんとうに幸福なんだと考えることがある。こんな考えはまちがっているのだろうか。それなのに、ある時は、世の中のすべてはお金だと思う人、お金に幸福を求めている人をけいべつし不幸な人だと思うこともある。
こんな人は幸福だとか、こんな人は不幸だなどとよく言っているが幸福とは何か、と、聞かれても、私には、わからない。辞書には、しあわせ、さいわいと出ていた。
「現在、あなたは幸福ですか」と聞かれても私には答えられない。なぜなら、私には幸福の本当の意味がまだわからないから。