2011年09月11日

鎌形小学校高等科2年生・吉野孝平『旅行記』 1937年(昭和12)11月

 鎌形小学校高等科2年生の吉野孝平さんの1泊2日の修学旅行の初日の作文『旅行記』です。1937年(昭和12)11月14日、東京、横須賀、鎌倉、江の島を見学しました。全文を見学場所で12に分けて掲載しました。作文の完成は1938年(昭和13)1月7日です。


●吉野孝平『旅行記』 1 植木山集合からバスに乗りこむまで


●吉野孝平『旅行記』 2 出発、松山町、吉見


●吉野孝平『旅行記』 3 鴻巣、大宮、浦和、戸田橋(荒川・県境)


●吉野孝平『旅行記』 4 ガスタンク、信号機、東京市中


●吉野孝平『旅行記』 5 宮城見学


●吉野孝平『旅行記』 6 日比谷公園、増上寺、泉岳寺、東京市中


●吉野孝平『旅行記』 7 神奈川県、横浜、横須賀へ


●吉野孝平『旅行記』 8 三笠見学


●吉野孝平『旅行記』 9 逗子、鎌倉八幡宮


●吉野孝平『旅行記』 10 鎌倉宮


●吉野孝平『旅行記』 11 大仏、七里ヶ浜


●吉野孝平『旅行記』 12 江の島

ラベル:学校学校
posted by ransiro at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 1 植木山集合からバスに乗りこむまで

十一月十四日、今日はうれしいうれしい旅行日である。したくも朝食ももどかしく学校へ行くと、もう友達は皆来て僕が一番しまいである。何だかはずかしいやうな気もした。誰も誰も大きなべんとうのつゝみを手にしてゐる。げんかんの電とうの光にてらされてゐる友達の顔を見ればうれしさにもえてゐるやうに見える。之から目前に巡回して来る光景を豫想して。が之を幾分さいぎるのは天気が悪いことである。少しくもってゐる。が我等はこんな気持をうちけして自動車の待ってゐる植木山へと足を進めた。くらい道を二、三の電とうをたよりに進む。時に起る話、皆旅行の話をゆくわいに話しながら。植木山にはもう小林君、長島君、鯨井君等我等の来るのを待ちに待ってゐた。「おはよう」「おはよう」と言いかはす。ハイヤーが来てまってゐる。がまだバスの方が来てゐない。いくらまってもなかなか来ない。もはや時計も五時を過ぎてしまった。先生が運転手に、きょかしょうをわたし等をす。その内にバスの方のうはさが始まる。それが過ぎればバスの運転手の悪口がもれ始める。いくらまっても来ないので、ハイヤーの方は先に出■る事にした。この間引いたくじにより、一番から七番までの者が乗りこむ。僕はつまらなかった。内田君山口君等に別れてしまふのが。小林君等と共にバスの来るのを今やおそしとまってゐなければならぬ運命となってしまったのである。
自動車は電気をまぶしく光らせて出発してしまった。僕はつまらなかった。「これでは行かない方がいいや」「これで行けなければべんとうの作りそんだ」等又「運転手のやろう、何をぐずぐずしてゐるのだらう。朝ねでもしたのだろう」等と運転手の悪口はつのる。こんな事をしてゐる間にいつしか明るくなってしまった。其のうちにやっとの事でやって来た。「今頃来たんで何にになる」とついもれてしまう。とまるとすぐさま乗りこむ。そして男は車の後の方へ乗りこんだ。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 2 出発、松山町、吉見

出発。すると自動車は気持よくすべり出した。まどから見れば後には小さい子供達が見送ってゐる。時に時計はもはや六時半をさしてゐた。予定より一時間以上おくれてしまった。まどからはすうすうとつめたい朝風が吹きこんでゐる。うれしさうに、にこにこと笑ってゐる者、其のあまり体をゆすってゐるやうな者も見える。なつかしき鎌形の地は後へ後へとなって行く。だまってゐては、つまらないので一同大きな歌をはり上げて軍歌「敵は幾萬」を歌ひ出した。根岸橋【都幾川にかかる月田橋】をわたる。車はスピードを出してずんずん進む。まどから吹きこむ風がつめたい。其の内に先に出発したハイヤーに合った。から子【唐子】である。友達とまどから顔を合す。進むとこの前松山へ菊売りにいった時、休んだ所に出た。
 間もなくふみきり【東上線の踏切】を通り過ぎ、いよいよ松山町に着いた。(六時四十五分)菊売りに来た時の思出となる家々が、のきを並べてゐる。その内に土田先生の家の前へ来た。其の時、車中の者一同、一せいに萬歳をして通り過ぎた。町を通りすぎると、目前にあらはれたのは、吉見領の百穴【吉見百穴】だ。我等もしばしばここに遠足等で来た事がある。いつ見てもよい所だ。松山城を右に見て、左に美しい川を見た。之は人工を加へて作った川だときく。川岸の両側にはきれいにどてがきずかれてゐる。水はゆったりと流れてゐるが、車の方はまったく目もまわる程の早さだ。天気もだんだんよくなって来るので、ますます前と【前途】がゆくわいになる。すると前に廣々とした平野が、てんくわい【展開】した。ずい分廣い耕地だなあとおどろくばかり。道がまったくでこぼこで乗ってゐる我等はがたがたゆれるので旅行記を筆記するのにまったくよういでなかった。ずい分、道が真直(まっすぐ)だ。前を見れば、ずうと遠くまで見える。すると左にめずらしい木が見えた。先生があれはハンの木だとせつ明してくれた。
 六時五十五分頃古名(こみょう)とゆう所へ着いた。どての様な所の上の道路を通過すると左側のむかふに人が作ったやうな河がある。橋を立かへてゐるやうだ。この河岸を見てはまったく驚いてしもふ。それは魚つりが實に多い事である。両岸にはつりざほを下げた人が一列に列んでゐる。それから此こには萱畑が實に多い。まだかり取られずして、かれた白ほを風にゆすられてゐる。古の武蔵野とはこんな所の事だろうと思はれる。白ほが一面あるのが、又おもしろい。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 3 鴻巣、大宮、浦和、戸田橋(荒川・県境)

時計が七時を指した時、鴻巣に着いた。後を見るとハイヤーがすぐ後に来てゐる。着くと間もなく国道に出た。道が實に廣い。道はアスファルトなので自動車はなめらかに道の上をすべって行く。このへんは昔の中仙道である。今までの風景とは、かわっていよいよ都会気分がして来た。道の両側に一本づつ枝ぶりのよい松が道路の上をおほってゐる。これは昔の松だそうだ。町を出ると先づ温室を見た。僕はまだ温室とゆふものを見たのは初めてである。四周ガラスを持ってめぐらせる小屋のやうなものである。中に何かあったが何だかわからなかった。自動車は快速力を持ってはしる。ハイヤーもまけづに、すぐ後をおって来る。そして陸上にある橋を通った。下は鉄道が通ってゐる。
いよいよ進んで大宮に着いた。(七時二十七分)大宮と言いば誰も鉄道工場を思ひ出す。今我等はそこを通ってゐるのである。大きな煙突からは真黒な煙がもくもくと天空に上ってゐる。道路の並木は皆いてふ【銀杏】で列を正して列んでゐる。葉は美しい黄色に色どられてゐる。大宮に着いてから三分も立って浦和市に着いた。先づ浦和高等学校を見た。其のきぼの大きいのにおどろかされてしもふ。しはん学校【師範学校】を左に見、縣ちょう【県庁】を右に見て車はどんどんはしって行く。次に出て来たのは武徳殿だ。ここは剣道のだん【段】を取る所だそうだ。ちょうどお寺のやうな所だ。それに無線電信所を見て我等は驚いてしまった。進み進んでいよいよ東京に近づいたので自動車等の往来がはげしくなって来た。並木がさくらになって来た。そして道の右側にオリンピック競そう場としるしたくひ【杭】が立ってゐる。そして間もなく戸田橋についた。橋を過ぎればもう東京である。美しい戸田橋をわたり初めた。時に七時五十二分であった。橋下は清き水が流れてゐる。こん所を通る気持よさ。歩いて通ったらどれほどであらう。橋を渡り過ると車をとめて一同下車した。市中へ入ると休めないとゆふので。下りると皆すぐに小便をした。僕も下りるとすぐにやった。気持がよくなる。今まで少しも下車しなかったので歩くのに少し変だった。すると自動車が来てこれも下車して気持よさそうにむかふを眺めてしばし休■してゐる。一同車中の人となると車は直ちに動き出した。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 4 ガスタンク、信号機、東京市中

いよいよ東京である。家の立ってゐる様子も今までとはかはってゐて、我国のしゅふ【首府】たる趣がある。市内電車がひんぱんに通り初めた。行く手に大きなガスタンクを見た。こんなものは初めて見たものだ。まるい大きなみぢかい煙突のやうなものである。これを見たら先生がガスの製法を教へてくれた。タンクのある場所もずいぶん廣い所であらう。次に青物市場を見た。大きな家の中には、大根、葉類、人参、何から何まで青物は来てゐる。人もずい分来てゐる。今ちょうど荷車でやさいをはこんで来た人がゐる。電車、自動車がたへまなく行き来するので進むのに用いでないので我等の車は市内電車の後をおって行ったので割合早く進めた。進むと自動車がとまってしまった。今までもしばしばとまった事もある。前にも後にも幾だいもとまってゐる。十字路であるが別に交通巡査がゐるのではない。巡査の代りに電燈でやってゐる。今は赤い電燈がついてしまったのである。パッと電燈がしゅ色につきかわる。之は動き出すしたくをしろとの信号で間もなくパッ青色につきかわる。と同時に何十だいもの自動車、自転車が一度に動き出す。實によく交通せいりが出来てゐるものだ。この信号にさいしたがって往来すれば交通事こは出来ないわけである。三階、四階のてっきんコンクリートの高層けんちくの家々が道の両側にひしひしとならんでゐる。時計屋、果物屋、菓子屋、米屋これだから何をかふにも一足外へ出れば用が足るやうである。人、自動車、自転車等かぞいれば限がないほどいろいろの者が往来する。どうしてこんなに人が通るのだらふ。又どうして、こんなに多くの人が何の用があるのかとただただあきれるばかり。又人の服そうも面白い洋服をきてゐる人、和服をきてゐる人、男は皆洋服である。女は主に和服である。又妙な形、色をした服等をつけてゐる者もゐる。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 5 宮城見学

そして中央気しょうだい【中央気象台】を過ぎて八時頃宮城に着いた。御ほりの中には青いうすぎたないやうな水がまんまんとたたへられてゐる。其の邊にはやなぎの並木で、美しい小枝をたれ下してゐる。ほりのむかう側は美しい名を持って石がきがきづかれてゐて其の上に形のよい美しい松の大樹が枝を合せてゐる。この松もずい分古いものらしい。もしかしたら徳川の時代からあるのではなからうか。そこに昔の江戸城の一部がそびいてゐるのを見る。之等は皆徳川幕府の居城なりし面影をとどめてゐる。一同は二重橋より、宮城遥拝の為に丸の内ビルディング前に下車してならび進んだ。ばらばらで行くときけんである、道を通る事は出来ないからである。僕等は先生の後をついて道のむかう側に走った。と中できれたり何かして、まごまごしてかけて来るのをみてゐるのも又面白い。もう宮城の内へ入ってゐるのである。御ほりの片すみにごみがたまってゐる。其の邊には松の枝ぶりよき巨木が茂り居る。みきはうす黒い色をしてゐる。右の門に番の巡査がついてゐる。そこへ一人の軍人が入って行った。そして左に彼の江戸幕府の大老伊井直すけが、みと浪士の為に害せられた櫻田門を見て進む。進む道は宮城内へ入ってからは道とも思へぬほどの廣さ、小砂里が置かれてゐて、どこからどこまで美しい。左側には美しいしば地があり、其の上に松や何かいろいろの美しい枝振のよい植木が植られてゐる。このしばの上へ行って遊びたいやうな気もした。右側の木々の間からは青色の屋根が見える。いよいよ二重橋に着いた。そうじをする人が一生懸命やってゐる。前の広場の廣さはまったく想像以上である。橋のむかうには写真等に出てゐる門が見える。御ほりは下の方に水をたたへて二重橋のある所はよほど高いやうである。遥拝の人も幾人もゐたが我等がいくとどいてくれた。いりを正しつつしんで先生の号令一下最敬礼をした。「少し休む」とゆうので各々ちらばって方々を見た。先づ御ほりを見た。ここの水は美しくずっとむかうまでつづいてゐる。屋根等にはかわいらしい、はとぽっぽがゐる。御ほりには水鳥かあひるか何羽がおよいでゐる。石がきを持って、ほりの下の方を作られ、其の上は美しいしばのどてである。廣場の方から二重橋を渡り初る所には門がしめられてゐて橋のむかうの門の所には番兵さんがだまってじっと立ってゐる。其の奥に続く橋が見える。そして我等はここを出発した。二重橋は何だが写真ほど美しくは見えなかった。かへりにここ廣場の石をひろってかへった。急ぎ進みふりかへり見れば、宮城の大木の間から国会議事堂の頭の方が見える。宮城遥拝の人々はたへない。きれいなしばふの上には植木がある。この間から大忠臣くすぬき正成の銅像がちらちらと見える。そしてそのそばに大砲がすへつけてあるのも見える。これが為楠公銅像は見る事が出来ぬ。ここらの芝生には番兵が二、三人始終見まわってゐる。そして八時四十五分頃又一同車中の人となり出発した。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 6 日比谷公園、増上寺、泉岳寺、東京市中

東京市中を自動車で走る。他の車が前に出ると我等の車は速力を出してゐるのでずんずんとこれにおいつく。これで他の自動車を乗りこえた時の気持よさ、思はずぬきこえた車を後のまどよりのぞく。すると前にひびや公園【日比谷公園】があらはれたがそれはごく小部分の植木を見たにすぎなかったのである。植木は美しき緑樹。其の間を道が作られてゐる。僕はかつて上野公園へ行った事がある。上野にもこんな所がある。進む道路の両側にはコプラの並木がぎょうぎよく並び、其の葉は美しき茶色にそめられてゐる。又芝のぞうじょう寺【増上寺】を見た。實に大きな寺である。又今てっきんコンクリートにて立てられてゐる家を見る。四周にやぐらを立てて職工さんが一生懸命になって働いてゐる。いろいろの自動車をぬく。電車と行き合った時は電車の音が「ごう」と耳に入るがつかの間、あたご山ほうそう局【愛宕山放送局】を過ぎ、彼の有名な高なは泉覚寺【高輪泉岳寺】、忠臣大石良雄以下の赤ほ義士【赤穂義士】の英れいが安らかに眠ってゐる所である。自動車は速力を出して進む、進む、そしていよいよ品川に着いた。駅を見る。鉄道が何條も何條も合さってゐる。赤くぬった消防自動車が通り、バスが通り、ダットサンが通る。これ等と共に我等の自動車は行く。そしてゐる内に人家の間からさざなみの光る海が時々見える。車中の人目は皆この方にそそがれる。が十分と見る事はとても出来ない。それから三分もたってからの出来事である…荷車をひいて来た人に自動車がつきあたりつきとばされた。が幸に大けがはしなかったらしい。間もなく顔をなぜなぜ起上り何がぶつぶつ言ってゐるやうである。近所にゐた人の目は一時にそそがれた。…がこれも仕方がない事だらう。道一ぱいを自動車が通り荷車の通る場所もない位なのだから、こんな事もたびたび起る事であらう。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 7 神奈川県、横浜、横須賀へ

京濱国道をまっしぐらに進み、六郷橋、つる見橋【鶴見橋】を過ぎて東京府を後にして、間もなく神奈川縣下に入った。(九時十七分)玉川橋【多摩川橋】を通過し川崎に着いた。そして横濱を目ざして進んだ。
 九時四十分頃ようやく横濱に着き、右側に銅像を見たが誰のだかわからなかった。だんだんと横須賀に近づいただけに水兵を多く見た。市内を三、四人、或は五、六人で元気よく歩いてゐる。水兵さん、我が帝国の水兵さん見ただけでも気持がよい。市内電車にも水兵さんが乗ってゐる。僕等の車は電車と共に進む。と、左側に河がある。それにそった道を進む。この河のきたない事、下水にもまさる程のものである。向岸の家々はそめ物屋か何からしい。そしてその水を河に流してしもふのらしい。河岸に土管が出てゐて、之から流れ出ずるむらさき色、黄色等に河はこれ等の色にそめられてゐる。清く澄んだ水は少しでも見る事は得がたい。川と言ふよりむしろ下水と言った方がよかろう。とむかふに出征する軍人を見る。我等は思はず聲をはり上げて軍歌「日本陸軍」「天に代りて不義をうつ、忠勇無そうの我兵は歓呼の聲に送られて、今ぞ出で立つ父母の国」の歌が口からもれそれが、まどからもれる。再び廣々とした海が見え出した。まどから吹きこむ風が海風のやうな気もする。波に日光があたりきらきらと光ってゐる。遥か沖にほかけ舟が幾そうもうかんでゐるのが見える。波がたへず海岸を洗ってゐる。海、海、海いつ見てもよいものだ。どこまでも水は澄み、海底が手に取る如く見える。この美しき海中にのりを取る木が何條も何條も列を正して一面にある。之等の木の頭がきれいに出てゐるを見る。之を見ると高等一年の読方海苔の課を思ひ出す。海が見えなくなると前に山があらはれ、道はトンネルとなってゐる。内はコンクリートにて作られてゐる。トンネルの中ほどまで行くとうすぐらくなり、間もなく明るくなる。トンネルの内にても何だいもの自動車と行き合ふ。之等電気等をつけてゐる。それは十時頃っであった。出るとこの地には温室がとても多く作られてゐる。今ちょうど温室の中の植物に水をくれてゐるのを見た。そして山と山との間の道をすべるやうに進み、十時十五分横須賀についた。
 道を往来する人に水兵さんが實に多い。と思ふ間に車はトンネルに入る。出て少し進むと又トンネルとゆふやうに、トンネルをもはや八つも通りぬけた。内は皆コンクリートできれいにかためられ中には水がしみ出してゐるのもあった。第三トンネルを通りぬけると左に海軍水雷学校のたてものが見えた。第七番目のトンネルが一番長かった。又トンネルの内部には二つ、三つ位づつ電燈がついてゐて内部を明るくてらし、其の光が自動車の内部にも入る。水兵さんがくつの音も高く通り過ぎて行く。と左に横須賀駅が見え、其こには出征兵士と多くの見送りの人がゐる。我が郷里菅谷村にての兵士見送とちょうど同じやうである。見送の中でも海軍の兵隊さんが多い。我等はここでも大きな聲で「日本陸軍」を歌って之を車中より送ってやった。見づ知らずの人だって、皆帝国を防ってくれる兵隊さんである。そして左に造船所を見た。が立並ぶ家の間から其のわずかが見えたに過ぎなかった。其の内に軍艦の艦尾か艦首か、小部分が見えた。海軍鎮守府が置かれてゐる。そして間もなく三笠艦見学の為に下車した。ああああ気持がよいものだ。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 8 三笠見学

これから出て来るものは、あの世界歴史上、名高い日本海海戦其の時旗艦として活やくした三笠だ。我等の心はおどった。するとそこへ職人風の人が来て、いかにも案内人のやうにふざけて、「おれのあとをついて来い」と言って通り過ぎた。本気にして其の人の後をついた者もあったが皆が行かないので引かへした。一同列んで三笠艦に向った。横須賀は一方山ばかりであると今までのトンネル通過で知る事が出来る。ここは明治維新前徳川幕府が造船所を造った頃は、戸数僅か三十戸のさびしい一漁村にすぎなかったが、今は発達に発達を重ねて帝国の重要なる軍港となり、人口十一万ににも達してゐると聞く。いよいよ海が見え出した。海水は戸数が多い為であらう。海岸近くは割合にきたなくなってゐる。海上遥か沖はかすみ水平線の空との境はよくわからぬくらい。小波がぼしゃぼしゃと岸を洗ってゐる。向ふに記念艦三笠の姿が一部分見え、マストは天空高くそびいてゐる。少しでも早く見たひ、軍艦とゆふものはどうゆうものであらう。我等の足は一人でに早まる。海中に突入してゐる船のつく所には今ちょう度漁船らしいものがついてゐる。こんな所で少年達が一生懸命魚つりをやってゐる。いよいよ雄大なる軍艦が目の前にあらはれた。うれしくてたまらぬ。三笠の艦尾には大きな海軍旗が海風にあほられて、ひらひらとうごいてゐる。又マスト高くにはあの有名な東郷元すいが下した信号、「皇国のこうはい此の一戦に有り。各員一層ふんれい努力せよ」とのゼット旗がひらひらと動きゐる。艦内各所に見学の人がたくさん見える。又艦上にあらずすぐ其の下の芝地に巨砲がおかれてゐる。其の内に先生が見学料をはらったので進む。水兵さんもずいぶんゐる。砲のある所の芝生もずい分きれいだ。そして其の砲のそばを通る。之は三笠主砲のナニインチ砲なりと、せつ明してある。そして海岸の所はあつさ一米もあろうと思はれるコンクリートで出来た、へいのやうなものがあって波のうちよせはよく見えない。いよいよ艦のそばに近づいた。艦尾には横に「みかさ」と書かれてゐて、艦の色は乳色をぬってある。一行、げたの者は草履にはきかへ、くつをそうじして梯子を上った。一同艦上に上るとせつ明の人がついてくれた。皆この役についてゐる人、海軍士官のやうな服をきて、ぼうしのもう章はゼット旗の入ったものである。先づ艦尾の軍艦旗に對して一同最けい禮をして案内人のせつ明を聞き初めた。十二インチ巨砲は遥か沖をみらみその下には、この砲よりうち出すたまが二種類安置されてゐる。(説明)……三笠はもう七回もの戦に出動して、日清、日ろの戦に特功を立ててゐる。中でも最もはげしかったのは黄海の戦と、世界史上有名な、彼の日本海海戦であると。艦内各所にある赤いしるしのありのは黄海の戦の時、敵国砲だんの命中した所、青いしるしの所は日本海大海戦の時たまが命中した所、又点々を以てしてあるのはたまはあたったがかんつうしない所である。又この艦にある十二インチ砲はいもので下の芝生にあるのが本物であると聞き、本艦には十二インチ砲が四門、八インチ砲が十二門あると聞く。又黄海の戦の時は南側に、日本海大海戦の時は北側に大げきはをあたへられてゐて當時の両戦役がいかにはげしかったかが知る事が出来る。それから艦内各所に多くの戦死者を出してゐる。こんな所には戦死した人の写真が一人一人あり、其の場所には一人一人のたほれた所がしるされてゐると……もうすぐそこから赤いしるしでぬりまくられてゐてありし日の戦きょうを物語ってゐる。彼の十二インチ砲の根本にも一だん命中されてゐる。砲のわきには大きなたまがあたったらしく大場所がやられてゐる。次は電信室である。入口の所もさんざんにやられてゐる。そこにはたまがあたったがかんつうせず、へこんだままのもあった。室の出入口の所には鉄板がでてゐて出入にじゃまのやうな気もした。こんな所にもいやとゆう程たまが何はつも命中してゐる。室の内部には當時用ひた電信機がおかれてある。彼の信の丸の「敵艦見ゆ」との通信を受けたのもここである。中へは入れなくなってゐる。次にあらはれたのはマストである。之は艦に取っては最も大切なものである。が日本海海戦の時、敵もさるものここに命中してしまったのである。が我が帝国の正義に神が宿り、幸にして之を助ける所のつなが強かった為にたほれずにすんだ。もしもたほれたらそれこそ大変である。命中の為に忠良なる将兵をここで何名もたほしてしまった。今はマストもなほされて其こにかかげられた写真は當時の場所のざんきょう、及び将兵の写真である。ずい分ひどい様である。マストの根部はことごとくはくわいさい其のは片が週違に一ぱいちらばってゐる。實になみだも落ちんばかりの光景である。進むと左側には八インチ砲がづらりと並んでにらめてゐる。ここには水と砂とがおかれてゐて、水は砲身をひやすに、砂は火災の時用ふる物である。もういたる所にたまがあたり、少からぬ戦死者を出してゐる。かべには其の人達の写真がかしげてある。ますますにくひロシヤ及び支那である。それから艦首に出た。艦首には国旗がかかげてある。甲板には太いくさりが横たはってゐる。いろいろの物があるが何だかわからぬ物ばかりである。案内の人は……此の艦首の方向は宮城をむいてゐるのであると……ここから北を見れば廣々とした、はてもなく海がつづく。うちよせる小波が美しい遥か沖の海上に美しい陸のやうなものが見える。多分商船かなにかであらう。艦首の方向、むかうに我が帝国の軍艦が一せき雄ぜんと横たはっている。我等も一度位は乗ってみたいものだ。甲板を進むと今度は日本海海戦のはげしきを物語るだんこんで一ぱいである。司令とうにのぼる。この邊にもずい分だんこんがある。のぼり口は小さい梯子なのでのぼるのになかなかよういでない。で我等はむかうの下り口の所を速かに上り、皆と一しょになった。ここは前艦橋とでもゆふのが中央に司令長官のゐる所がある。ここはあつさ三、四十糎もあらうかと思はれる鉄板を以てめぐらしてある。少し位のたまでは大丈夫のやうに出来てゐて中に命令を下す管等が置かれてゐるが大たんな東郷元帥はここにゐるのを喜ばずに更にこの上にてしきをされた。一行更に上に上る。ここは下とちがって場所もせまいし、砲だん等よける物等少しもない。元帥はいつも、ここでしきをしてゐたのだ。元帥以下副官等将士がゐた所は皆しるしがしてある。後には其の写真、尋常六年の国史の図に出てゐるのと少しもかわらぬ、元帥等のしせいを思ひ出される。元帥が片手にそうぐわんきょうを持ち、雄ぜんと立ちじっと敵艦隊をにらみつけてゐる様子が。自分等がそうゆう将士になったやうな気がする。下の司令とうの中に、いた人はけがをし付近では多くの戦死者等を出してゐる。又ロシヤの十二インチ砲だんが下に命中して司令とうのわきの方は半分位飛されてしまひ、其の時の砲だんのは片が元帥のいた方へ飛上がり、それは元帥の足もと二十糎ばかりの所をつきぬいたが元帥には少しものけがはなかった。もしも元帥が司令とうの中にでもゐたらきっとけがをしてしまったであらう。ここを高いのでどこを見るにも美しい■に洋々としたる大海原を見るのが面白い。青くすんだきれいな海、光る海。今度は下る。下り口は上り口より廣いので早い。艦内へ入った。三笠艦は英国にて進水式をおこなったものと知り、又日本海大海戦の時バルチック艦隊の進路の図等皆せつ明してある。大海戦の時の三笠の位置等をしめす図を見る。ロシヤ側の旗艦初め二、三せきの船に火災を起してゐる。これ等を見ても我国のうでまいがわかる。又元帥初めいろいろの役の人が重要なる相談をした室に入れば、實にきれいにそうじがしてあり、中央のテーブルでも何でも光ってゐる。このテーブルの上には元帥にかん係のある物品がならべてあり、元帥の像、写真等もある。尚たく上には當時のロシヤ新聞があり、これには東郷元帥の写真が入ってゐる。新聞には何と書かれてゐるのがわからない。なほこの室でロシヤ、バルチック艦隊の司令長が降参して来て会見した所である。次は元帥の寝室である。實にしっそなものである。又當時お用ひになった元帥の服等を見る。寝室の所にまどがあり、そこから海が見える。水兵の寝室は空中である。ひくいはりにかぎが所々に出てゐてここにはんもっくをつってねるのである。(説明の人が)みなさんも兵隊さんになるとこんな所にねるのだよと。それから三笠記念艦へ入った。入口には「だつぼう」僕等はぼうしを取って入った。そこには三笠大も形、多くの宮様、大将、中将とゆふやうな人の写真、御自筆等があり、三笠関係の諸品が並べられてゐる。中でも僕等の知ってゐる東ふしみの宮様の御写真、御自筆等もあった。ついこれ等に気を取られ足もとを見づにあるいたらちょっと出てゐた丸い物につまずきころんでしまった。一時間で見てしまうのだから、いそがしい。大急ぎである。ここを出ると、砲だんが實に多く命中されてゐる。それから彼のバルチック艦隊の司令長は負しょうし、降ふくの時、元帥と会見出来ず其の副将が会見に来た。其の時三笠艦上に登って来た所等も見た。そこには、くさりがしてある。案内人につれられて更に下る。僕はいつでも一番しまひになってしまふ。くらくて電気がつけられてゐる。まわりは白いやうな変な色でぬりつぶされてゐる。いやなにほひがはなをつく。下はわたりらうかになってゐる。案内人の話によればまだまだ下にそうこ、きくわん室等があるのだがこれより下はうめてしまったのと聞く。大急上へ上った。だんだん気持がよくなる。そこには下の室への空気を出入させる管がある。それはちょうど大きなラッパの口のやうなものである。口には金あみがはってあり大きな物は入れないやうになってゐる。又マスト登りとゆうのを水兵さんは毎日やるのだそうだがこんなに真直に立った、其の上高い所へ登るのだからよういでないことだらう。尚マスト高くゼット旗はひるがへってゐる。實に艦内は廣いものだ……ずい分今の日本は急な進歩をしたものだ。それは軍艦を見ても知る事が出来る。この三笠艦は我が国にて造ることが出来ず遠い外国イギリスにて造り、イギリスで進水式をやったのだ。が今はと言ってもまだ六十年位しか立たない今日はもう、外国へ軍艦を作ってやるやうにまで進み進んでゐるのである。……一同案内人に禮を言ひ、艦を下りた。もうこれから、このやうな友達と共にもう一度この見学をする事はとても出来ない事である。この艦が日清、日露の戦に帝国を防ってくれたのだと思ふと、感謝の念が起らずにはいない。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 9 逗子、鎌倉八幡宮

十一時三十分三笠艦を後にした。帰にみやげを買った。品物は、軍艦三笠、及び軍艦生活等、三笠にちなんだものを多く売ってゐる。中でもゑはがきが多い。そして十二時一同は、二度車中の人となり出発した。目ざすは鎌倉八幡宮である。そして車中にてべんとうをたべた。ガソリンのにほひでくさくてたまらぬ。そして道がでこぼこでゆれる、こんな車中でべんとうをたべるのであるが、友達と共に旅行の日のべんとうのあじのかく別さ。今度は先来た道を通らずして向った。山谷のやうな道を進み、トンネルを二つ通り片いなかを通過し逗子に着いた。(〇時二十分)車中の者達は軍歌等を歌ひながらゆくわいに乗ってゐる。そしていよいよ鎌倉に着いた。
鎌倉は三方山にかこまれた、要さいのやうな所だ。そして彼の英雄頼朝がここに幕府をおいた所である。だから頼朝公に関係のあるものもずいぶんある。自動車は若宮八幡宮の鳥井をくぐり、参道を進めば両側の家は八幡宮鎌倉宮大佛等にちなんだものを売ってゐる。天気はよく気持がよいので参拝にちょうどよい。週違の木々は美しき中に、車はとまった。我等の車は大きいから乗りおりにまったく不便だ。まどのむかうに外国人を見た。僕は外国人を見るのはまだ初めてである。多分西洋人であらう。何かべらべらと言ひながら遠ざかる。下車してむかうを見れば彼の名高い大いてふの梢が見える。もう葉は落ちてしまったかと思ったら、まだまだ青々とした葉がついてゐる。石だんを少し登ると太こ橋である。實に丸い橋だ。この橋はふつう渡る橋ではなさそうである。というのは、この橋のわきに別な橋がかゝってゐる。枝ぶりのよい松がある。我等はこの太こ橋を渡った。又この橋は面がなめらかに出来てゐるからたまらない。面白いほどよく「つるりつるり」とすべる。やっとこれをわたると、歩む所はコンクリーートで作られてゐて左右は小さな小石が一面におかれてゐる。進めば前には拝殿がある。しゅぬりの柱も美しくよく出来てゐる。それより少々、はなれた所右には若宮がある。彼の義経のつま静か御膳が舞を奏した所である。目前に彼の大いてふが出て来た。まだ葉は青くやうやく黄色がさしかゝった位である。だから、こちらは我里より暖かである。学校にゐる時、大いてふの葉を取って来ようと思ったが学校のいてふの葉の全部落ちたのを見て失望した位である。が今青々とついてゐる葉を見てよろこんだ。石だんを登ると左に大いてふがある。實に大きいものである。みきはうす黒い灰色をして、でこぼこである。このいてふの古木はもう初植へたのがかれてしまったので其のあとへ又植へたものだそうだ。なる程、根の元にはかれた大きなきりかぶが少々ある。もしも今なほあればどれ程の物になってゐるであらう。二代物の大いてふも高く天空をさしてゐる。彼の将軍実朝が承久元年此こに殺されたのである。この古木大いてふを見ては當時の面影をとゞめる。記念にこの葉をひろってかへおうと思ったが、あいにくよい葉が落ちてゐなかったので帰りに取ってやろうと思った。そして鶴岡八幡宮の本殿の前に正列して、一同最けい禮をした。實に大きなりっぱな社だ……これは源頼義が立てたのではなからうか。……参拝の人はたえない。我等は八幡宮に別をおしみ石だんを下った。この石だんは六十二段である。そして僕は内田君、杉田君と共に大いてふの下へ行き、飛ついて葉を取った。少し黄色がゝった美しい葉をもとめる。杉田君はぼうで葉を落してゐる。そうじの人は一心不乱に紙くづをひろひごみをはき等してゐる。皆が先に行ってしまったので大急ぎかけて行った。僕は一目散に先来た方へかけて行ったら、内田君が「こっちだよう」と僕をよんでくれたのでよかった。若宮のそば通り、進んだ。皆はもう前の神社の前に正列して最けいれいをしてゐる。僕等は池上の橋を渡る。池には大きな鯉ふな等が静かに泳ぎ遊んでゐる。水は少しきたない。まわりの植木は美しく枝ぶりがよいのばかりである。皆がゐたのは白旗神社であった。この社は源頼朝をまつったものであると聞く。我等も大急ぎ最けい禮をした。一行は下車した時写真屋が一しょにせつ明してくれたのでよかった。一同は源頼朝公の墓お参りの為に進んだ。両側美しい木々の間を進むと近所の子供達が両側に来て我等を見送る。歩きながら旅行記を書いてゐると、子供等が我等の方をきもちの悪い程見つめる。我等の里でも、このやうである。左側に畠山重忠公の邸趾がある。重忠は義経の家来だ。そしてここにゐたのだなと思はれる。あの菅谷の畠山重忠のどうぞうも、この鎌倉をむいてゐる。死しても主君のゐる地をはるか見てゐるのだ。今度は右側に神奈川縣しな人学校を見た。もう頼朝公の墓へも間近になった。石だんを上る。上には頼朝公の墓があるのである。石だんの上り口には年を取ったおばあさんが記念のスタンプ、写真等を売ってゐる。一人でさびしいだらう。いよいよ目前に墓があらわれた。前に「源頼朝の墓」と書いたくひが建てられてゐてゐる。頼朝は落馬しどうしたとか立ふだに書かれてゐる。墓の四周はコンクリートで出来たものでかこまれてゐる。前はかたく閉され、英雄の御霊は大樹の下にねむってゐる。国語読本にもあるやうに、英雄の墓には、様々のこけが一ぱい生茂ってゐる。四周のかこひにも尚更はいてゐて、こけで作ってあるやうだ。府近にはいろいろの大樹が生茂り、墓上高くをおうてゐて、ひる尚うすぐらき所である。一同最けい禮をして次に進んだ。幾人かは頼朝公墓お参の記念にと言って、こけを取って来た。次は大江廣元、島津忠久公等の墓へお参りに行くのだ。行く道は頼朝公の墓より右側の坂路を進むのである。坂路と言っても別に人工を加へて作った道ではなさそうだ。土はねば土と岩のくづれたので出来たやうなものだ。きっと大江、島津公の墓へお参りに行くのに近いから、自然出来たやうなものだ。急な坂路はせまいし、大樹の大根が所々に頭を出してゐるので、はかま等はいてゐてはなかなか進めない。周囲の木立は日光をさいぎりうすぐらい小路を迫む。坂が終わると今度はがけの中腹にある小路を、路はせまいのでふたりづつならんではとても歩けない。一列になって進んで行った。間もなく大江公島津公の墓についた。これもやはり、こけむす山中の墓である。二人の墓は並んでゐて、左が大江公、右が島津公の墓だそうだ。墓の前には坂の下まで続く長い石だんがある。めづらしい事に此の人達の墓は岩窟の内にあるのである。内から何かとび出しそうである。一同は正列して両者に最敬礼をして石だんを下った。下り切ると其の右にまた岩窟の中にふるびた墓がある。左には又おばあさんが記念のスタンプ写真等を売ってゐる。前にゐたおばあさんよりさびしそうである。大江廣元公は頼朝公に最も関係のある人で鎌倉幕府の要人材である。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 10 鎌倉宮

今度は大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)をおまつり申した社である鎌倉宮に向った。売店の並びゐる参道を通っていよいよ鎌倉宮についた。この社は宮幣中社である。鳥井から初まって、きわめてしっそなものである。鳥井には色はぬってない。白木のまゝのもので大きなしめなはがはってある。八幡宮に比べては別世界にでも来たやうである。けい内には形のよい松の植木、いてふ等も所々にある。まだ一度も水をのまないので、のどがかわいてしかたがなかった。石だんを上り社の前に正列した。社は白木作りのしっそなものである。神々しさたとへやうなく、自ら人のえりを正さしめる中に、おごそかに最敬禮をした。……「鎌倉宮にもう出てはっきりせぬ御子の御うらみに、ひふんの涙わきぬべし」実際そうである。にくい国ぞくの足利氏の為に御子は害したてまつられてしまったのである。一同は親王のおしこめたてまつられた土牢、宝物殿拝観の為、拝観料をはらひ進む。こうゆふ小役の人は白い着物を着てゐる。社の右側を少し進めば、村上彦四郎義輝をまつった社がある。……義輝は命のつなと頼んだ、吉野の城が風前のともしびとなった時、義輝が宮の御身代わりとなり、ここでりっぱな最後をとげたのである。其の石にもう一つ社がある。こんな宮が土牢に入れられてゐた時、宮のせわをした人をまつったもので、二社共に大塔の宮のお守り申すやうにすぐそばにまつられ両者共満足して地下に安らかにねむってゐる事であらう。次は土牢である。入口には「だつぼう」と書いてあるのでぼうしをとって入った。そこには土牢がある。前にはしめなはがはってあり牢の上からは草がたれ下ってゐる。牢は岩をほりつくったやうになってゐる。そばのせつめいのふだを見れば、穴の深さは一丈餘尺、廣さは八じょうじきであるそうだ。内の方はくらくて何も見えない。宮はこの中におしこめられてゐた時は、さぞ無念であったらう。又中はつめたひにちがいない。おそれ多くも皇子様であるのに、こんな所へおしこめる。更に足利氏がにくくなる。それから次は宮の御首をなげこんだとゆふ所、そこには小竹が何本か木々の間に生えてゐる。そしてそこには、しめなはがはってある。我等のゐる所は美しい小石の一ぱいある所である。ここでついて来た写真屋は足をとめていろいろ説明してくれた。……話、足利氏は宮を害し其の御首をこゝへすてゝにげるとこの山のふもとに昔寺があって、其のじゅうしょくが見つけ、この首は尊い人の御首だとゆふを知り、山のふもとの松の木の下にうめた。為に足利氏のうらみを受け寺に火をつけられたのだそうだ。宮の墓は今尚あるが、おしいかな其の寺は今はあと形もないと……無代でよい記念になるので足もとの石を二、三手にした。そして宝物殿の方に向った。途中古い大砲があった。多分、誰が奉納したものと見受る。宝物殿には明治天皇の御自筆、大塔の宮の御手紙、宮の雄々しい御乗馬の御姿、みこし等、護良親王に関するいろいろの物が安置されてゐる。そして鎌倉宮参拝記念のスタンプをおして鎌倉宮を後にした。もうすこしゐたかったがしかたがない。鶴岡八幡宮の前の自動車の方に向った。人力車をひいた人が通ると思ふと、水まき自動車が水をへりからふきながら通る。自転車等あると水を出すのを上手にとめる。又時々馬車が通る。馬車はこの遊らん地の一特色であるなと自分はしみじみ感じた。
 先に立つ写真屋が立ちどまった。左側に寺がある。説明によれば、これは北條氏の邸趾だそうだ。そして北條氏の御霊をほうむってゐると聞く。進むと間もなく下車した所に着く。馬車が何だいもとまってゐる。八幡宮も位置をかへて見ると、なんだかちがふ所のやうだ。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 11 大仏、七里ヶ浜

一時四十五分鶴岡八幡宮前を車中の人となり出発した。山間の谷の如く道を自動車は矢のやうに進んだ。此の邊は山ばかりで、廣々とした平野はとても見る事は出来ない。山々の木々は美しく葉をそめ、秋をかざってゐる。道路の左右所々に人家を見受る。さびしい片田舎である。此の邊の風景は我郷里と少しもかわらぬやうな気がした。そして間もなく大佛の地に着いた。下車して間もなく大佛の姿が一人見える。是は鎌倉の名物国宝である。四週山にかこまれた中に一人露坐の大佛がのこりとしてゐて、お参りに来る人々を見下してゐる。ふと見ると大佛のかたの所に何か出来てゐるなと思ったら近づくにしたがひこれはなんとかわいらしいはとが二羽ちこんととまってゐるのではないか。實に大きなものだ。大佛は何とも言はず、雨が降っても風が吹いてもじっと坐ってゐる。其の前右には「そてつ」の美しい植木が植えてある。そしてそこには何か立ふだが立ってゐた。又大佛の前にある、ゆのみのやうなものも驚く程大きい。其の高さは我等の背をもしのぎ、其の中へは我等が何人も入れるやうだ。そんなに大きくも此の体に比せば、まだまだ小さいやうに思はれる。大佛の高さは三十六尺だそうだが、もっともっと大きく見える。大きな目はやさしく下を見つめ、手を前にくみ、ほがらかなやさしい顔をして何も不平なさそうである。下には黒光りのある石が一ぱいである。大佛の右にある家で記念のみやげに小さな大佛を買った。誰が「大佛の子だ」と言ってゐる。空にそびゆる大佛の体内に入る所は体の右下にある。おしいかな中へ入る事は出来なかった。こは鎌倉時代の一傑作である。周囲には美しい樹木が植えられてゐる。時間が少ので、いたし方なく此こを後にした。ついうっかりして大佛の下の石をひろって来るを忘れてよい記念物を失った。内田先生は形のよい大佛ににた石をひろって来て我等に見せた。そして早くも車中の人となり出発した。
 今度は美しい七里濱の波の美観を見るのだと思ふと心はおどった。其の内にちらちらと遠く海が見え初めた。そして左に彼の名称新田義貞が剣を海中にとうじた古戦場いなむらがさきを見て進んだ。時に二時十分、どんどんと江の島に近づいて行く。海岸を進めば、海遠くかすみ、沖から来る小波はじゃぶじゃぶと白いしぶきを立てゝ砂濱をあらひ、ずうーと引いて行く。この運動をたえ間なくくりかへす。その内に美しき七里濱へ着いた。廣々とした砂濱がつゞく。海上には日光があたり、きらきらと輝いてゐる。景色の美しさ、はるかむかうに江の島が小さく見える。よく晴れてゐれば富士山が見えるが、おしくも見る事は出来なかった。うち上げる波の美、海風のそよ吹く中を進む気持よさ。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌形小学校高等科2年・吉野孝平『旅行記』 12 江の島

今度は海を遠ざけて進む。人家の間を進むと出征する兵士に出合った。見送の人多く、たすきをかけた国防婦人会員、小学生、今ちょう度店のラジオが元気ある軍歌「日本陸軍」を歌ってゐた。我等の口からももちろん勇ましくもれた。見送の人が時々車中をのぞきこむ。盛んに歌を歌って送ってやった。片瀬海岸を通れば江の島もいよいよ大きく見えて来た。それにさんばしも見えて来た。アスファルトの上を自動車はすべって行くと、いよいよ江の島入口の所へついた。自動車置場へ車を置きて正列して出発した。置場のむかうに銅像がある。是は乃木将軍のだそうだ。したには海につゞく川があり、道路と同様の橋を渡って行く。海岸との境はコンクリートで高くくぎられ其の上を道があるのである。海はよほど低くになってゐる。海岸は美しい砂が一ぱいである。いよいよ桟橋を渡り初めた。(二時二十分)橋は古い丸太で作られて江の島まで遠くつづいてゐる。島上の家々まで美しく見える。橋が古いからいかにも島へ行くと言ふ感じを強くする。もしもこれをコンクリートででも作ったら島へ行く感じをけして陸の上でも通るやうな気持になってしもふ。橋下の砂濱は終って今度は海水である。七里濱に同じく白波が砂を洗ってゐる。海中を通る電柱は江の島を明るくするのだ。橋の中腹であみに入れたさゞいを賣ってゐる人もゐる。海水は青々と、海風に吹かれながら海上遠くを見る楽しさ。島の入口にも貝等を賣ってゐる人がゐる。この人は生きてゐるたこをも賣ってゐた。両側の家々は皆、かひ細貝等並べてある美しさ。旅館等もある。見はらしのよい所ばかりだ。石だんを上るとしゅぬりの大鳥井ががんばってゐる。是をくぐり、右に左に石だんを上る。緑樹の間を進むと果して社がある。江の島神社であらうか。鳥井とうろう皆しゅぬりである。一同は正列して最敬禮。社の中にはかゝみが安置されてゐる。のどがかわいて仕方がない。石だんを下ると其處に水があった、何人か水をのみに行くと先生に、手洗水だと言って注意された。又石だんを上りふとふりかへれば廣々とした大海原が一目に見える。我等の来た所等も見え美しさ、かく別である。道の両側には所々に家あり、いろいろの貝細具、記念いはがき等を賣ってゐる。女の人が店頭に出てウグエスぶえを面白そうに吹いてお客をよんでゐる。間もなく、奥津宮へ着いた。左側に大きなそてつの植木があり、下には木像のつるが二羽ゐる。進めば両わきにうす青いこけの生えたとうろうがあり、其のむかうに、とうろうよりやゝ高く鳥井が立ってゐる。社の右側には一だんと高い所に美しい芝生があり、其の上に日蓮上人の銅像が立てられてゐる。一同社前に列を正し先生の号令一下最敬禮をした。あまり大きな社ではない。時間の都合で大急ぎ進んだ。道のかたはらに驚くほど大きなつばきの木が茂ってゐる。もういたる所に遊びに来た人がゐる。進む前には何十丈とも知らぬ大谷がある。むかふへ行くには橋のやうな所を通って行くのである。深い谷の向ふには美しい海が見える。谷には岩がでこぼこにとびだしてゐる。上からごみをすてるので上方はきたなくなってゐる。所々には巨岩が飛出し、所々に松等が生えてゐるのが美しい。我等がとうると、そこでやはり谷を見てゐた人がじょうだんを我等に話しかける。我等は笑って通り過ぎた。いよいよ町のやうな所へ出た。家々の人は皆出て客が来るのを待ってゐる。店の中には貝細具がひしひしと並び、いろいろの美しい貝で作った柱かけ、中にかゞみのは入ったのもある。又ふぐのちょうちんのやうなものもある。みやげはかへりに買ふ事にして進んだ。進めば又社がある。正列して敬禮をすると写真屋が拝殿の上をゆびさして「上の圖は八方にらみのかめの圖です」と説明してくれた。なるほど前から見れば前をにらみ、左から見れば左、右から見れば右をにらむ。實にうまく書いたものだ。そして海岸へ出るべく道を進んだ。緑樹の間に店は何げんとなく並び店頭にいろいろの品が並べてある。今までの上りの石だんに対し今度は下りの石だんである。緑樹と家々との間を進むと、もう江の島を横ぎることが出来た。手前の木の間を通してずうーち前に廣々とした、我等の血潮おどる気持よき海が見え出した。上りの石だんにくたびれてしまった我等は今度は下りなのでよろこびの聲を上げぬばかりだ。其の時小林君の時計はちょうど三時をさしてゐた。ずい分江の島べこぼこの島だと今までの上り下りの石だんを見ても知る事が出来る。我等はよろこびの聲を上げんばかりにして石だんを左に右にまがって下って行った。所々に緑したゝるばかりの大木が茂ってゐる。我等は是等を目にもとめずに下る下る、所々に記念のスタンプ等をおす所等がある。下る、こんな所にも家が立てられてゐて、内に客等が何人か見える。ぼうぼうたる大海をながめながら何かたべてゐる。間もなく目の前に海があらわれた。陸から海にのり出した岩が數知れぬ。来た方はがけのやうな道である。一方は廣々とした海、そして小波がたへず岩を洗ってぼしゃぼしゃとしぶきを上げてゐる。岩上を一同は通る。遥か沖を見れば発動汽船が通ってゐる。多分りょうしが魚取りにでも行ってゐるのであらう。岩の間を下に下る。岩も皆ごつごつしてゐる。其こには、」はまぐり、さゞい等を買ってゐる人が岩にこしをかけて買ってもらいたそうに我等を見てゐる。此の邊の岩上には遊びに来たらしい人が幾人もゐる。写真を取ってゐる人もゐる。そして我等岩上より海の見物等は後にして岩屋の方へと、岩上のコンクリートの参道を進んだ。二人位で並び通れる位の橋のやうなもので、是にはてすりがついてゐて、朱色がどこからどこまでぬってある。歩くに手をつけて行くとたちまちぬってある色が落ちて手につき赤くなってしまふ。左側はきり立ったやうながけで、でこぼこなきたない色をしてゐる。右側は海である。あまり遠くなく発動汽船が我等の進む方に進んで行った。だっだっとゆふ気持のよい音を立てゝ進む。船尾のスクリューがまわってゐるので水をぼこぼことあわ立ててそれは後にのこしてゐる。船首は勇ましく、いせいよく水を左右にかき分けてどんどんと進む。實に気持がよい。せめて一度でもよいから乗って見たひものである。我等は海国男子だもの。海中に岩が飛出してゐる。時々さあーと来た波は突然其の岩にはげしくあたり、白波となってくだける。白波はあわのやうである。同時にきりの様なしぶきが美しく立つ。又まれに来る大波が岩を頭から洗ひ、すましたやうに又引いて行ってしもう。沖はぼんやりしてかすみてゐるが時々漁船らしいものを見る。進む海を下にして、がけの中腹のやうな所を一同は並び進む。正面に巨岩が飛出してゐる。参道の橋のやうなものは、其の巨岩をさけて左にまがり続いてゐる。行く先にどんなものがあるか、想像もつかない。誰かにゆめの世界へでもつれて行かれるやうな気がする。下の海岸では多くの人が遊んでゐる。我等も降りて見たひが下りられずたゞたゞ進むばかり。と行く手に橋はきり立ったやうながけ、いや山からつゞいた岩か何かを前にして終ってゐる。そしてこのがけに穴があいてゐる。トンネルかと思はれる。これは岩をほりぬいたものである。一同はこゝを通り初めた。中に入るにしたがひ次第にくらくなり、コーモリでもゐそうである。實にくらくなった。初めての道だし、其の上くらいので、おっかなびっくりそろそろと歩く。いくら目を大きくあいて見てもわからぬ。これでは何物かに、はなをつままれてもわからない。穴をやゝ左にまがると、幾分明るくなり出した。友達におくれぬやうにと大急ぎ外に出た。ここもやはり前と同じく参橋のやうなものである。ここの所には、どうしてしゃれこんで屋根までついてゐる。目下には岩が所々に出てゐる。海水が満々とあり、波がおしよせると、岩にあたり音を立てる。しぶきはより美しい風けいを生ずる。其の海水の波の山のおしよせる様、引く様、實に言ひがたひものである。おしよせた海水は岩上に上り、引くと岩上の海水は次々と流れこむ。間もなく先生が岩屋拝観料をはらったので、一同一度に進む。ここのかゝりの人は白い着物を着てゐる。我等は江の島奥の院へと入って行った。穴べんてん、岩屋入口實に人目を驚かす程の大きな穴である。ごつごつの岩の出てゐる岩屋入口の高さは何丈位あらう。其のはばもよほど廣い、物々しい所である。其の岩の飛出した所、飛出した所には、かわいらしいはとが何十羽となくとまって、或はとびまわってゐて、ここをよき我家としてゐる。岩屋の入口高くには大きなしめなはがはってある。かへり見れば大海原は日光があたりきらきらと光ってゐる。岩屋の下に海水がはげしく出入して物すごく岩にあたり是を洗ひ、物々しいものを出してゐる。其こより左へ行く道もあるが、これはかへりにとす。周圍の岩にははとのふんが点々と白くある。そして今まであった橋よりよいなと思はれる橋を奥へ進めば海水はなくなり石となる。そしてその上を進む。だんだんと入るにしたがってだんだんとくらくなって来た。何だか気味が悪いやうだ。すると前に鳥井があり、これにはられたしめなははそよともせづについてゐる。だんだんに穴も小さくなって来た。そして其の前に社が見える。なんだこれで終りだなと感じた。と思ふと是は拝殿であった。まだまだ奥へつゞいてゐるのだなと知った。拝殿には白衣にひのはかまをつけた少女がゐて、べんてん様参拝の人人に火のついたらうそくをうってゐる。其の左側の家にも同様の少女が、お守、おふだなどを賣ってゐる。よくこんなうすぐらい所でいやでないなと思はれる。何本かのらうそくを買ふと一行は拝殿の右側にある小路を通って拝殿の後にまわtった。こゝからはもう眞くらと言ってもよい位になってゐる。この拝殿によって入口からの日光をさいぎってゐるからである。もうこのうすぐらいらうそくが、たゞ一つのたのみとなるものである。この拝殿の後はかなり廣井所である。僕は少しゆっくりしてゐたら皆に先に行かれて後の方になってしまったので先生の持ってゐたらうそくと共に進んで行った。頭上の岩も次第に下りて来てはばもせまくなって来た。らうそくでよく見れば左右の岩にはらうそくのとけたのがたくさんたかってゐる。いよいよあたりの空気がじめじめして来た。と思いば岩にはしみずが幾分しみ出てゐる。進むにつれて清水が多くなれば道の上にトタンを持って来て屋根が作ってある。清水は音をたてて落ちてゐる。時々らうそくの火がきれそうになると歩む足がにぶくなる。なんと言っても足もとが気にかゝる。どうなってゐるかもわからない。たまには岩がちょいと出てゐるので気が気でない。又、所々にじぞう様等が行く道の横側にある。皆各々、こんな所になららうそくなど等が光々と光ってゐる。人と行き合うとこまってしまう。もう道もせまくなってゐるから、或人がじぞう様にあった、らうそくを取って自分のらうそくと共に二つ持ってよろこんで行く人もあった。周圍の岩は青みがゝった色をしてゐると思はれた。すると前に小さな池があり中に何かまつってあった。水は少く、きたない色をしてゐた。すると間もなく行く手の道がたちまち二道に別れてしまった。一同は先ず其の右の道を進んだ。頭上の岩はもはや頭につき底頭して進む。其の位であるかた道のはばももちろんせまい。二人で歩くのはやっとであるから行合った時には両方まったくこまって、たがいにいんりょしながら進む。こんな時には着物等は岩にふれる。もし土でもたかったら、よい記念になるにちがいない。とそこに平たひ岩があり、まわりは木にかこまれてゐる。そしてそこに、なにか書いたものがある。だがらうそくの光位では何が何だかさっぱりわからない。字もうすくなってゐる為そしてやっとせんせいがらうそくをおしつける様にして、多分これは日蓮上人のねすがたであらうと、其の上にはらうそくのとけたのが眞白にと言ってもよい位に落ちてゐる。勿論道にも落ちてゐる。前はいよいよ行き止り、お宮が穴にやっと入った位にして立てられてゐる。ともしびが光り輝いてゐる。穴一ぱいに。宮の前にはさかき、しめ等がはられてゐる。社の前に立ち最敬禮をした。と言っても終始頭を下げてゐるのだから最敬禮をしてゐるのと同じだ。社を後にして進んだ。こんな所を通るのだから一人で歩ってさいよういでないのに、参拝の人が割合に多いので交通に不便だ。又先に分れた所まで行くのもよいでないから途中から穴をくゞって左の道にうつった。この穴は實に小さいので、こしまでまげてやっと通りぬけた。やはり道の両側には、幾つものじぞう様がある。足を早めると、らうそくの火がきえそうになる。しかたなく火のきえない程度と歩く。そして頭を下げて歩くやうになると間もなく前のと同じやうな社がある。やはり最敬禮をした。が皆が先に行ってしまうのでいたし方なく、ちょいと頭を下げて、元来た方へ帰って行った。らうそくを持った人と少しでもはなれると實にくらくなってしまふ。らうそくがあってもくらいのだから仕方がない。なれない道をおっかなびっくり進む。これも又面白いものである。だんだんと頭の上の岩も上り道も廣くなって来た。穴はどんどんと大きくなる。と間もなく高くから日光がさしこんでゐるのが見えた。言ふまでもなく拝殿の屋根の上からである。そして拝殿の少女にのこりのらうそくを渡した。いよいよ日光がさしこみ實に気持がよい。と同時に波のうち上げる音がきこえ初めた。今までとは急に風景がかわったのでゆめの様だ。橋を渡れば一番先に海水を見る。一行は岩屋を出ずに、左にまがり、とすぐにトンネルをくゞったがもう来る時もくゞったのだから何でもなかった。これを出ると又橋を渡って行く。コンクリートの橋は以前とかわらず、しゅぬりである。橋は山より連なるがけにしたがって右に左にまがって行く。橋とがけとの間は谷の如く中には岩が種々様々の形をしてゐるを見る。草木は見がたく、山の上方にやゝ見らるゝのみ。右は廣々としたる大海。其の中にうかび出でたる岩々に海水がうち上げては波が引くにしたがって次第次第に流れて行く。こんな事をあきずにくりかへしてゐる。するとむかうに我等の行く橋は山にむかってきれてゐて、其の向ふにやはり穴がある。何か其の中にあるにちがひない。我等一行は其の内へ入らず、又先来た方へ、帰って行った。すると其の時、前に岩屋へ入った時拝殿の所にゐた少女の衣服と同じものを着けた少女が我等の行く方へかけて行った。ふと海中を見るとちょうど大きなかめに似た岩が海中にある、波が来ると体を海中に全部入れてしまふが、波が引くとずうーと次々に体をあらはす。まったくよくかめに似た岩だなあとかんしんするばかり。今度は海岸へ下りるのだなと思ふと一人足が早くなった。トンネルをくゞり、ふと岩屋をのぞくと奥に拝殿が見える。そしていよいよ海岸へ下りるべく下口についた。皆どんどんとかけ下りてしまった。波が足もとでじゃぶじゃぶじゃぶとおしよせてゐる。皆大よろこびである。こんな波のうちよせは見なかったからである。横濱でも、横須賀でも、七里濱でも。勢よくおしよせた波は岩にあたり、しぶきとなってくだける様は初めてである。もう江の島へ行ったら潮水をなめて見るのだと勢こんでゐたものは下りるとすぐに岩の所に行き波がおしよせると、其の時潮水を手に取り、口にふくんで見て「なるほどしほからいな」と言ってゐる。と先生が「写真を取るから集れ」と言ったので、我等は一散に集り、一同形よき岩上にそれぞれよい所を選んでしゃがんだ。僕は内田先生のすぐわきにしゃがんだ。足もとには大波か何かの時うち上げられた潮水が幾分あった。女は男の後に立った。太陽がかゞやいて少しまぶしかった。其の内に「ぱっちり」と音がして写真を取ってしまった。
ラベル:鎌形小学校
posted by ransiro at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠足・修学旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月05日

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号(1965年11月)目次

※『むぎぶえ』18号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷小学校、鎌形小学校、七郷小学校、菅谷中学校、七郷中学校の児童・生徒の作品の目次です。


●いぬ すがや一ねん おはらまちこ


●がっしゃとり ななさと一ねん かねこしげる


●みつみねさんにいったこと かまがた一ねん ながしまてつお


●はいしゃはおやすみ すがや一ねん のむらじゅんこ


●ブルトーザー ななさと一ねん いしだみつひろ


●えにっき すがや一ねん うちだまさよ


●おるすばん すがや二ねん 浅見京子


●自てん車のり すがや二ねん 田辺宏


●しゃぼん玉つくり すがや二ねん みやじまひでお


●もらった子犬 ななさと二ねん こわせみつひろ


●日記 かまがた二ねん 長島君江


●ハーモニカ すがや二ねん 山口久子


●すいかわり 菅谷三年 岡本恵子


●おにいちゃんのけが 菅谷三年 小沢利江


●先生への手紙 鎌形三年 加藤陽子


●発表をする 七郷 三年一組


●雨 鎌形三年 小実文子


●なし 菅谷三年 三枝千賀子


●東京のお友だちへ 鎌形四年 山下敏子


●ちろ 菅谷四年 奥野由利子


●おばあちゃん 菅谷四年 山崎里美


●ウォーターバレー 菅谷四年 杉田典子


●かぼちゃ 菅谷四年 山下幸弘


●ヘリコプターで空中さんぷ 七郷四年 中村美佐江


●へんとうせん 菅谷五年 佐野威


●きりぎりす 七郷五年 市川茂


●小田原の花火 菅谷五年 内田静江


●発電所の見学 鎌形五年 中島省吾


●木 菅谷五年 武井明弘


●日記 菅谷五年 出野恵美子


●水たまり 菅谷六年 富岡宏江


●江の島鎌倉 菅谷六年 吉原容子


●旅行記 鎌形六年 長島満男


●ナイター見物 七郷六年 藤野嘉彦


●「ああ無情」を読んで 菅谷六年 高橋京子


●注射 菅谷六年 栗島澄子


●町の通り 菅谷六年 中島みよし


●「シュヴァイツェル」を読んで 七郷中一 小林より子


●「北里柴三郎伝」を読んで 菅谷中一 鈴木久


●「やせぼっこ」を読んで 菅谷中一 中村かおる


●「坊ちゃん」を読んで 菅谷中一 市川草子


●おねえさんへ 七郷中一 松本加奈江


●山頂の夜明け 七郷中二 田幡昇


●草むしり 菅谷中二 岡部みどり


●日の出 七郷中二 宮本入江


●チビ 菅谷中二 松本文江


●ガ 七郷中二 吉場晴江


●太陽 菅谷中三 秋山文子


●終戦二十周年を迎えて 七郷中三 馬場悦子


●まむしにかまれた私 七郷中三 新井昭子


●J・R大会二日目 菅谷中三 大塚勇


●桑摘み 菅谷中三 西沢トモ子


●愛犬の死 菅谷中三滝沢信子


●秋 七郷中三 吉場規恵

posted by ransiro at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 『むぎぶえ』18号(1965年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

桑摘み 菅谷中三 西沢トモ子 1965年

桑摘みに行った。
朝霧の中を。
眠い目をこすりながら。
ポチポチと一葉一葉摘む。

川の音を聞きながら、
せみのなき声を聞きながら、
まだ露のついている桑の葉を、
ポチポチと摘む。

太陽はすでにのぼって、
どこもかしこも照らしている。
力強い真夏の太陽の下で
ポチポチと桑を摘む。

耕うん機に積んだ帰り
以前のねむけもさめ
偉大な自然をながめながら、
さっぱりとした気持ちで家へ向った。

   比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 『むぎぶえ』18号(1965年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号(1966年11月)目次

※『むぎぶえ』19号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷小学校、鎌形小学校、七郷小学校、菅谷中学校、七郷中学校の児童・生徒の作品の目次です。

●ままごと すがや一ねん ほそやけいこ


●おぼんさま ななさと一ねん もりしたかつひで


●てがみ かまがた一ねん なかばちともこ

●ねこ ななさと一ねん あべかずあき

●えにっき すがや一ねん せきぐちともこ

●えにっき すがや一ねん ほそやけいこ

●はね田くうこう 七さと二年 竹内まさつぐ

●おきゃく かまがた二年 すぎたけい子

●ヘリコプター すがや二年 山下あき子

●めだかのかんさつ すがや二年


●せみとり すがや二年 ふじたけい子

●ゆうだち ななさと二年 千野としあき

●かき学校にさんかして 菅谷三年 中島千恵子

●ぼんおどり 七郷三年 川口京子

●黒山へ行ったこと 鎌形三年 長島君江

●木下大サーカス 菅谷三年 嶋田由美子

●上野動物園 七郷三年 田島輝子

●あさがおのかんさつ 菅谷三年 神山すえ子

●日記 菅谷三年 山口久子

●朝日 菅谷三年 山口久子

●自転車のり 菅谷四年 飛田耕市

●遠足 鎌形四年 杉田ひとみ

●いかほに行ったこと 七郷四年 船戸佐知子

●おふろ 七郷四年 大沢暁

●にじ 菅谷四年 番場みち子

●交通博物館見学 菅谷五年 田村直樹

●牛 鎌形五年 杉田芳子

●ふろたき 七郷五年 市川留美子

●兄の手紙 菅谷五年 小沢三千代

●ちちしぼり 菅谷五年 久留田よう子

●たき火 七郷五年 大沢幸弘

●対校試合 菅谷六年 関口武一

●朝のできごと 七郷六年 大塚敦子

●子ども大会に参加して 鎌形六年 簾藤伸子

●嵐山キャンプの夜 菅谷六年 根岸久代

●バラの花びら 菅谷六年 武井明弘

●転校 菅谷六年 和田治子

●ありの国 菅谷六年 反町典子

●赤城山旅行の一日 七郷中一 関口雪江

●キャンプ 七郷中一 内田清

●「リンカーン」を読んで 菅谷中一 小林進

●「坊ちゃん」を読んで 菅谷中一 江沢富美子

●「アルプスの少女」を読んで 菅谷中一 高橋矢枝子

●おとうさんのけが 菅谷中一 栗島澄子

●通信票 七郷中二 島田晴美

●川 七郷中二 安藤まり子

●太陽と私達 七郷中二 安藤介三

●夏休み 七郷中二 田島永子

●水あび 菅谷中二 中島庸雄

●ヘミングウェイ著「老人と海」を読んで 菅谷中二 杉田全弘

●「車輪の下」を読んで 菅谷中二 鶴岡節子

●俳句 七郷中二 内田文三

●思い出のJR大会 菅谷中三 岡部みどり

●おつかい 七郷中三 田畑幸子

●「石川啄木」を読んで 菅谷中三 加藤昌之

●もういわないで 菅谷中三 田中ひろみ

●人気 七郷中三 小林靖弘
posted by ransiro at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 『むぎぶえ』19号(1966年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

菅谷中学校『青嵐』19号(1968年3月)目次 その1

posted by ransiro at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月29日

菅谷中学校『青嵐』19号(1968年3月)目次 その2

←菅谷中学校『青嵐』19号(1968年3月)目次 その1

■『青嵐』19号 嵐山町立菅谷中学校 1968年(昭和43)3月発行
●課題作文「幸福について」 三年A組 石松佳代子

●課題作文「幸福について」 三年A組 関口ゆみ子

●課題作文「幸福について」 三年A組 森美津代

●課題作文「幸福について」 三年A組 小沢淳子

●課題作文「幸福について」 三年A組 根岸治男

●課題作文「幸福について」 三年B組 吉野道子

●課題作文「幸福について」 三年B組 中島千春

●課題作文「幸福について」 三年B組 市川草子

●課題作文「幸福について」 三年B組 岡本はる江

●課題作文「幸福について」 三年B組 村田久雄

●課題作文「幸福について」 三年B組 鬼塚信夫

●課題作文「幸福について」 三年B組 中島庸雄

●課題作文「幸福について」 三年C組 長島啓記

●課題作文「幸福について」 三年C組 簾藤みよ子

●課題作文「幸福について」 三年C組 小林節子

●課題作文「幸福について」 三年C組 野口英世

●課題作文「幸福について」 三年C組 鶴岡節子

●「私の歩んだ道」を読んで 二A 高橋京子

●「大地」を読んで 二A 権田幸江

●「はるかなる歌」を読んで 二A 栗島澄子

●「赤毛のアン」を読んで 二A 新藤浩子

●「みぞれは舞わない」を読んで 二A 宮島和子

●「リンカーン」を読んで 二A 田幡和子

●「にんじん」を読んで 二A 内田喜雄

●「あすなろ物語」の「深い雪の中で」を読んで 二B 中島みよし

●「赤毛のアン」を読んで 二B 高山恵美子

●「あすなろ物語」を読んで 二C 根岸正江

●「真実一路」を読んで 二C 横山洋子

●「怪盗ファントマ」を読んで 二C 小林進

●「豊臣秀吉の少年時代」を読んで 二C 根岸茂

●「アリババの洞窟」を読んで 二C 吉原容子

●「小公子」を読んで 二C 中村裕美子

●「アンの青春」を読んで 二C 江沢富美子

●「トロッコ」を読んで 一A 長谷川昌光

●「赤毛のアン」を読んで 一B 金子順子

●「老人と海」を読んで 一B 西沢壮治

●「貧しき人々」を読んで 一B 神田敏子

●「リュパン対ホームズ(金髪の婦人)」を読んで 一B 細内隆司
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月28日

「リュパン対ホームズ(金髪の婦人)」を読んで 一B 細内隆司 1968年

 アルセーヌ・リュパン。それは、神出鬼没の怪盗、城館やサロンしか荒さないなぞの男であり、また、変装の名人であると同時に、名探偵でもある。奇想天外な紳士でした。
 しかし、そのリュパンを、向こうにまわして、大活躍をする名探偵が、いました。その名を、シャーロック・ホームズと、いいます。
 ぼくは、この物語を読んでみて、非常におどろきました。その内容は、次にあげることです。
 まず、この物語は、リュパンが、ジェルボア氏の古机の中から、宝くじの当たり札を発見し、その金額、つまり百万フランのうちの半分を、まんまと手に入れたことから、始まった。しかし、この物語の中に、リュパンが、古机がほしくて、それを手に入れたが、その中に偶然宝くじがまぎれ込んであったと、書いてあるが、ぼくのへぼ推理では、こう思います。
 リュパンは、初めから、宝くじの当たり札が、机の中にあることを、知っていて、盗んだのだろうと、思うのですが、どうでしょうか。話は、変わります。
 それから、リュパンは、オートレック男爵から、青いダイヤモンドを、盗むことに、成功した。だが、このダイヤ盗難には、いろいろな、なぞかかくされていた。フランスの名探偵、ガニマールも調査したが、何一つ証こは、なかった。
 ぼくは、こうなると、いよいよ名探偵ホームズの登場だな、と思い、次のページをめくった。すると、思った通り、ホームズ登場だった。それで、ホームズはあるレストランで、リュパンと、ばったり会って、それぞれ、妙な約束を、かわした。それは、次のような内容です。
 ホームズは、「君を、きっかり十日のうちに、逮捕する。」と、言うのだが、いっぽう、リュパンのほうは、「むりです。……むりですよ。」と。
 ぼくは、このあたりまで、読んでくると、もう、どちらが、勝っても負けてもいい。ただ、もっと先を読みたい心境になってしまった。それで、その結果はこうだった。
 ガニマールと、ホームズたちが、リュパンを、ある一室に、閉じ込めた。リュパンは、つかまることを知らなかった。そう、ナポレオンが、「私の辞書には、不可能ということは、ない。」と、いうことと、同じ意味だと、思う。そして、リュパンは、つかまった。と、思うのも、つかの間に、形勢は逆転した。
 ホームズが、ロンドンに帰ろうと思い、列車に乗り込んだところへ、リュパンが、見送りに来ていたからだった。
 これで、この物語も、幕を閉じるわけだが、この本には、この物語のほかに、もう一つ、「ユダヤのランプ」という物語が、のっているので、その物語を読んでみようと思います。それに、これから、推理小説をどんどん読んで、推理力を養っていこうと、思っています。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
posted by ransiro at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「貧しき人々」を読んで 一B 神田敏子 1968年

 ああ、私はよかった。こんな恵まれた生活の中に生まれてきて。ほんとうに心から、この豊かな生活に感謝しなければならない。
 そんな私から思えば、この話に出てくる人々は、なんてかわいそうなんだろう。幼い時、父母を失ってしまった、かわいそうな孤児。一人もみよりがないという孤児など、貧しい人々ばかりの、苦しみ、そして悲しみを描いている。
 私は、この本を読みながらも幾度となく、胸のつまるような思いになってしまった。今まで私は、何冊かの本を読んできたが、この本ほど、強く強く感動した本は、それほどはなかった。いや、それどころか、これが初めてだといってもいいだろう。
 貧しい生活を送っている、ジェープシキンは、みよりのない年とった人である。もとは役所で清書専門にやっていたが、今ではほんとうに貧乏になやんでいる。でも、そんなことはいっこうに気にせず、苦しみにたえて明るい気持ちで励んでいる。きっとジェープシキンは、このうだつのあがらぬ仕事にもほこりを持っているにちがいない。この気持ちは、ほんとうに尋常ではない。私も、いずれはあるところで働かねばならないが、そこがどんなところであろうとも、ジェープシキンのように、ほこりを持ってその仕事にとりくんでいきたい。
 ジェープシキンのゆいいつの楽しみは、ワーレニカとの手紙の交換であった。ことわざにもあるが、血のつながりは水のように薄い二人であったが、おとうさんのいないワーレニカには父のように感じられたのにちがいない。また、ジェープシキンが、ワーレニカに手紙を出したのも、父性愛というものが、ジェープシキンの心を働かしたのに、ちがいない。その手紙の中には、あらゆることが書かれてあり、ジェープシキンの貧しい暮らしのようすが、ありありとわかる。
 アパート住いのジェープシキンは、その中でも一番安い、ちっぽけな部屋に住んでいた。しかし、ほかの人達は、みんな、立派な部屋に住み、けっこうな暮らしをし、いつも、お茶は飲みほうだいに飲んでいたが、ジェープシキンは、そのお茶さえ、ろくろく飲めなかった。
 この時、私は、感じたのだった。人間の心の貧しさを。他人のために、みえや、ていさいを考えて、お茶を飲むという下劣なおこないを。世間体ばかり考えているなんて、ほんとうに貧しい心を持っている人たちだ。私は、そんな気持ちが、ほんとうに、がまんできなかった。
 いくら貧しい暮らしをしているジェープシキンでもワーレニカだけには、むりをしてゼラニウムやキャンディを買ってやるのだった。でも、そんなものを、買うお金でも、ジェープシキンにとっては、大金であったろう。そんなことから、どれほど、ワーレニカが、かわいかったかが私には、よくわかった。
 ジェープシキンには、ゴルシコーフという友達があった。この人は、罪もないのに犯人にされてしまったが、うたがいがはれて、家に帰ることができた。罪をゴルシコーフになすった大金持ちの商人は、
 「私の名誉は。名誉。評判はどうなるんだ。」などといっては、それを何度もくりかえし、最後には泣いてしまった。
 私は、ここのところを読みながら、ほんとうに腹がたってきた。なんと、みじめな気持ちであろう。自分の名誉、評判のためにだったら、どんなに悪いことでもするという、気持ちは、私にはゆるせられない。
 私は、この本を読みながらも何度も考えた。いったい、お金もなく、親もない人たちと、お金持ちで、立派な家に住み、自分のことばかり考えていて、そのためだったら、どんな悪いことでもするという人とではいったいどっちが貧しいであろう。でも、その問題はすぐに私には、わかった。やっぱり、どんな立派な暮らしをしていても、心のきたない人がほんとうに貧しい人であろう。私は、そんな人間にだけはなりたくない。でも、どうして世の中で、かくしておかなければならないことを、なぜ、どんどんほり出して書くのだろうか。でも、私はこの本を読んで、精神形成期にある私たちにとって、本当に知性と豊かなヒューマニティーを養うことができた。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「老人と海」を読んで 一B 西沢壮治 1968年

 老人が見る夢は、いつもライオンの夢だ。老人は、妻はいないが、友達はいる。友達と言っても一人の少年だ。少年は、いつも朝と夜老人の世話をした。
 少年は「老人がよっぽど好きだったのだろう」と思った。それは、四十日間一匹も魚がつれなかったので親の言いつけで、ちがう舟に行ったもののほんとうは老人といっしょに漁をしたいと思っていたのだ。
 老人は、八十四日間もの長い間、漁をしても一匹もつれる事ができなかった。
 だが老人は希望をすてず、八十五日目「今日は自信があるよ」と少年に言っていつもより沖へ出た。昼頃大物が針にかかった。この時老人は「何て言っていいかわからないほどうれしかったろう」と思った。
 それから三日間老人は、気を失いかけたり、つなで手を切ったりしながら大格闘をして、やっとの事で魚をやっつける事ができた。その時老人の胸は「うれしさでいっぱいだったろう」と思った。
 老人は、魚を小舟にくくりつけて港へと向った。よほどうれしかったのだと見えてまだ売らないうちからお金の計算をしていた。だが、海は老人に、一時は味方したもののまた、老人の行く手に海では一番の敵さめが待ちうけていた。さめは何匹もおそって来た。老人は、二・三匹は殺したが、三日間ほとんど寝ていないので非常に疲れていた。だが老人は、最後まで戦った。でも結局は、さめにみんな食われて白い骨だけになってしまった。老人は「これが夢だったらよかった」と言った。八十七日目にやっとの思いでとらえたカジキをさめに食われてしまったのだ。老人の胸は、「はりさけんばかりだったろう」と思った。
 老人の辛抱強いのには感心した。
 「海も老いた人に、こんなにまで意地悪をしなくてもよかったのに」と思った。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「赤毛のアン」を読んで 一B 金子順子 1968年

 私が、赤毛のアンを読んで一番強く感じたところは、レイチェルが自分でおき忘れたブローチをアンが盗んだといってせめたてたところです。
 アンは自分が盗んだのではないといったのに、レイチェルはアンの言葉など耳にもいれずにアンのせいにしてしまった。アンが自分が盗んだんだとはくじょうすれば、ピクニックにいかせてやるといったレイチェルの言葉を信じて、うその告白をしたところ、レイチェルは、ピクニックどころかアンを部屋にとじこめてしまった。
 レイチェルはマシューに言われて、もう一度自分の部屋の中をよく見ると、なくなったとおもっていたブローチがレース糸にからまってあったのです。
 レイチェルは、ブローチがあったので、アンをピクニックに行かせてやりました。でも、これが私であったら自分を犯人にしたレイチェルをうらむのに、アンはこのでき事をわすれてしまったように、喜んで立派な態度を示したので、見習いたいと思った。
 またアンは、自分の赤い毛を嫌っていたのにふとした不注意から、みどり色の毛になってしまって学校もろくろく行かなかった。
 アンが頭から行商人を信用したせいもあるが黒かみになるとうそをついて売りつけた行商人のほうがもっと悪いと思う。
 だって、そのために長くて赤いかみをみどり色に、また短く切らなければならなくなってしまうし、ジョシーには、「まるでかかしみたいね」などとひどいことをいわれたりしたからです。
 でもアンは、じっとがまんをしてだまってしんぼうしていられたのでかんしんしてしまった。また、ミニーが喉頭炎にかかったときもアンの手ばやい処置によって生命を救ったこともあった。医者がきたときには、ミニーはずっとらくになりぐっすりとねむっていて、さしせまった手当の必要はなかった。
 アンは小さい時、喉頭炎にかかった子供を世話したことがあるといっても、私がアンのみであっても、医者を呼びにいくぐらいで、その他の事はなにひとつ出来ないであろう。
 その他たくさんの失敗などもあったが、アンはいつも夢と希望をもって強くいきていくので私は、大好きです。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月27日

「トロッコ」を読んで 一A 長谷川昌光 1968年

 主人公の八歳の少年良平は、鉄道工事のトロッコに乗ってみたくてしかたがない。ある日、土工と一緒にトロッコを押すことができたが、あまり遠い道を来すぎてしまい、夕暮になり、山道をひとりでかけもどらなくてはならなくなった。泣きたい心を必死にこらえて、良平は無我夢中で走る。
 主人公の良平は、トロッコにどうしても乗りたいという心は、自分にはよくわかる。自分も何かしようとしても、出来ないことがある。が、そのやりたいことは絶対やるということは、良平に、にている所かもしれない。
 この作者は、良平の心理をあざやかに描き出している。自分は、これを書くことがへたなので、作者のように良平の心理をあざやかに描き出すことができない。作者は良平がトロッコに乗りたいという気持をよくあらわしている。自分はこの短編小説を読んでみて自分も良平に、にているので、なかなか小説の意味がよくわかった。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「アンの青春」を読んで 二C 江沢富美子 1968年

 アンの青春という本は「アン」という長い物語の二冊目の本です。私は一冊目の「赤毛のアン」を読んでいなかったので、主人公などもあまり良くわからなかった。主人公は「アン・シャーリー」という少女です。この少女アン・シャーリーは、生まれるとまもなく両親と死に別れ、孤児になってしまったのです。それにアンは真赤なかみの毛をしたそばかすだらけの、みっともない少女だったので、あまり人にかわいがられないようでした。なんて、みじめな少女なんだろう。
 アンが十一歳の時にエブオンリー村の農家の、マシュウとマリラという老兄妹に、ひきとられた。それからアンは幸福になり始めた。
 アンはマシュウ老人にとてもかわいがられていましたが、老人はいつしか死んでしまい、眼の悪いマリラとアンが過しはじめた。そのためアンが大学へ行けるはずが、行けなくなってしまった。そして小学校の先生として、二年間過しました。二年間アンは、教師として立派に働きました。アンは、生徒一人一人を愛し家では、アンと同じような身の上の子供たちを愛しました。
 アンはとても夢想することが好きでした。私も夢想はとても楽しいことだと思う。自分の好きなようにあれこれと考える、なんと楽しいことだろう。
 最後にアンは念願の大学へ行けるようになり、アンは、よりいっそう希望と夢がいっぱいになってきた。
 私はこの本を読んで思うことは、いくら貧しくても夢や希望を持っていれば、どんなことにあっても、やってのけることが出来るということのように思う。
 私もよりいっそう大きな夢や希望をもちたいと思う。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「小公子」を読んで 二C 中村裕美子 1968年

 この物語は、小さな少年を主人公とした物語です。少年の上に、いろいろな出来事がおこります。が、この少年は、自分なりにいっしょけんめいに努力し、かべにぶつかって、それを乗りこえていくことをくわしく書いてある物語です。
 私は、こんな少年の姿に、とても感嘆しました。少年は、すなおで、やさしく、むじゃきな性質でその行動は、まわりの人達を楽しませ、感心をさせています。こんな事は、大人の人には、まねの出来ないことだなと、思うこともたびたびありました。
 少年の身の上は、大変かわいそうなのですが、そのかなしみに負けないで、いつも明るくしているところなどは、やはり、少年のおかあさんの力だと思いました。
 ある時、イギリスの伯爵のおじいさんから、使いが少年とおかあさんのところにきました。おじいさんはとてもえらい人です。家も立派で、お金もたくさんある人です。そこからの使いでした。使いの人は、少年を迎えに来たのです。少年がこのおじいさんのあとを継ぎ、伯爵になるようにということでした。が、このおじいさんは、おかあさんを、とても嫌っているのだろうかと思うほどです。使いの人の言うとおりに、イギリスへ行くことになりました。でも、少年とおかあさんは、別々な家に住まなくてはなりませんでした。おじいさんが、おかあさんを嫌っているからです。私は、このおじいさんが、にくくてしょうがありませんでした。
 私だったらいくら嫌いな人でも、親子を別々にくらさせなかったと思います。 
 少年も、おかあさんと初めて、別々にくらすのですからとても、さびしかったと思います。でも、少年は、そんな顔をしませんでした。そして、この頑こでわがままなおじいさんと仲良くなろうと、いっしょうけんめいでした。私には、まねのできないことです。少年がいっしょうけんめいに努力したために、おじいさんの性質は、前とすっかりちがい、別人のようになりました。
 前では、村の人に嫌われていたおじいさんも少年のおかげで、信頼されるようになったのです。とてもいいことだと思いました。
 それに、おかあさんをこの家によぼうとおじいさんがいいました。こんなにまで、性質を変えた少年の努力は大変だと思います。
 おじいさんも、少年のむじゃきな行動、熱心さに感心させられることがあったのだと思います。少年の性質で村の人たちを救ったのだと思いました。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「アリババの洞窟」を読んで 二C 吉原容子 1968年

 この物語は推理小説です。推理小説というものは作者と読者のちえくらべだと解説に書いてありました。すぐれた作者ほど、読者の考える事よりも、一歩も二歩も進んだ考えを持っているのです。そうでなければ推理小説独得の、あの何ともいえない不安と期待の入りまざったような感情は生まれてこないと思います。
 この物語では、ロジャーズと称するウイムジイ卿が、世間の人々に、死んだと思いこませ、ブラック・マスク団にのりこんで行きます。なんといっても、ウイムジイの頭のよさがみものだと思います。それに正体がばれ、殺されかかっても、平然としている度胸のよさ。よほど、自分の計画に自信があったのだと思います。そもそも、ブラック・マスク団というのは、団長しか団員全部の正体を知りません。それが団全滅の道へ導いたのだと思います。そのことを知っていたウイムジイ卿は、それをうまく利用して団にちょう戦したのです。彼は、団に乗りこんで、団員の名前、写真、指紋を調べあげて、金庫の奥部屋にしまっておきました。そして、金庫の番号を、二年も前に警察に手紙で届けてあるのです。だから、団長が彼をあやしんで手紙を調べても、二年前の手紙まで気にするはずがありません。なんて、ウイムジイ卿という人は、すばらしい想像力をもっているのだろうと、思いました。団員の正体がばれれば、団は全滅。だから、だれかウイムジイ卿の家へ行って、それらの物をもってこなければなりません。しかし、団員が行ったのでは、その人に正体がわかってしまいます。そうすると、残るは団長。団長が行かなければなりません。しかし、団長にそんな危険な橋を渡らせるわけにはいきません。でも団長の命と、数多くの団員の命とでは、どちらが大切か。きまっています。でも、ウイムジイ卿だってそんなばかではありませんから、ちゃんと手は打ってあります。団長が彼の家にしのびこんで、金庫の奥部屋に入り、団員の名前や写真などの入っている、金庫を手にすると、同時に奥部屋の戸がしまり、中からは決して開かないようになってしまう。そして、ウイムジイ卿も助かり、団は全滅してしまいます。ところで団長はどうなったかでしょう。そのままで、数時間も金庫の奥部屋にいれば、窒息してしまいます。彼が、気絶している所へ、ウイムジイ卿らがかけつけ、命はとりとめました。さて団長の正体は誰だったでしょう。彼の正体は死んだと思われていた、怪盗モリアーティーという人は、世界をまたにかけての、大どろぼうだったのです。私だったら、少し残酷かもしれませんけどそんな人は死んでしまった方がよいと思いました。それなのになぜウイムジイ卿は、大急ぎでかけつけ、彼を助けたのでしょう。そのわけは、ウイムジイ卿は、彼を助けて正しい裁判で、かれをさばきたかったからです。私は読み終わって、自分のあさはかな考えを、反省するとともに、作者の進んだ、なおかつ正しい考え方がとてもすばらしいと思いました。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「豊臣秀吉の少年時代」を読んで 二C 根岸茂 1968年

 昼休みに、図書室へ行った。その頃冬休みに入る時だったので、ちょうど感想文の宿題があったので、たまたま引き出した本がこの本だった。おもしろそうだなと思って、ちょっと読んでみたところ、思ったとおり読みやすい本だったので、本屋へいって「秀吉の少年時代」を買ってきて、やったのがこれです。
 ちびの小猿とののしられている子供がいた。それがこんなおかしな人間が、秀吉であるとは、信じられなかった。月日が流れ、すくすくと伸びていく小猿、これは秀吉の幼少の時の日吉丸である。
 日吉丸は元気な子供であった。近所の子供をあつめて、ぼうきれを持ち、いくさのまねごとをやるような毎日が、元気な、そして日吉丸は楽しくてたまらなかった。だが、こう感じた。そんなに武士のまねばかりしていては、ほんとうの人間、真の人にはなれないのではないかと。知恵をまし、体力もついてきたころ、親のすすめで、寺へ小僧となってこもった。働くことは嫌い、いたずらは、しほうだい、おしょうさんが何と言ってもきかなかった。かげにかくれてはこそこそと相手のすきをねらっては、悪いことをしていた。おかしいと僕は考えた。あんなえらい人の少年時代が、こんなぶざまな姿で、僕の目前にあるのはどうしても考えられない。
 日吉丸は寺をとび出し親の元へ帰っていった。なが続きしないことには、僕もあきれた。次にも日吉丸は親のすすめで職人となった。親は小僧がだめならと思ってやったのにそういない。しかし、結果は同じだ。次々とかえ、長くて二ヶ月、短い時は二週間ぐらい。安定性は保たれなかった。職人はだめ、日吉丸はもう家にはもどれない。一人寂しくむしろをしいてある橋の上にねていた。「小僧じゃまだ。」という声がかかった。日吉丸あんな状態であったのに、人がかわったようになっていた。そこへ来たのは蜂須賀小六であった。その時の二人の会話は、日吉丸の日頃の勇気や積極性を物語っていた。僕はその会話に、うたれた。小六がああ言うとすぐに、日吉丸が口答えして反抗する。これが勝利へのどだいであったであろう。日吉丸は、勇気、根性をみこまれて、小六に従うことになった。それからも努力、努力を重ね上へ上へと伸びていった。幼少の時の一節一節を読み返してみると、ほんの裏側にあるものが読みきった後でないとつかめぬものがあった。悪の中の良さ。こう言うとおかしいかもしれないけれど、僕には、こう思えた。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「怪盗ファントマ」を読んで 二C 小林進 1968年

 この物語は大怪盗ファントマと名探偵フランドールのいきづまるような戦いが、書かれてあった。
 この大怪盗ファントマというのは、殺人事件を起こしたり、また宝石、金塊を盗むなど、多くの犯罪をおかす。しかしまだ誰もその姿を見たものがないという不思議な盗賊。
 この大怪盗ファントマをつかまえようとするフランドール。
 フランドールは頭はよく推理も大変しっかりしている。フランドールは大探偵ジェーブに教えられ、時には助けられ、だんだん大怪盗ファントマの正体をつかんでいくのであった。
 金もうけのためには、なんでもしてしまうファントマ、こんな人間は一刻も早くつかまえてほしいと考え、ぼくもフランドールの立場になって読んでいった。
 誰にでもやさしく親切なフランドールは、誰からもすかれていた。幾つもの危険をおしはらり、ファントムをつかまえようと一生けんめい進んでいった。ぼくはこんなフランドールに感激してしまった。
 そして、このファントマの正体は、みんなから信用されていた大銀行の頭取、ベルベエとナントイユの二人だった。ぼくはまさかと思った。同時になぜ大銀行の頭取たちが、そんな事をするのかわからなかった。
 この本を読んでみて、なんだかきびしい世の中について、一つ教えられたような気がする。そして怪盗ファントマのように外見は親切で、しっかりものだが心はまるで逆の暴君。こんな人間は一人でもいなくなるように願いたいものです。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「真実一路」を読んで 二C 横山洋子 1968年

 この小説「真実一路」には「真実」ということが書かれている。真実の生き方には、さまざまある。それが互いに違って生じ、悲劇が深まっていったことが、真実一路によって描かれていると思う。
 私の感動したことの一つは、運動会の対抗ランニング競争です。
 義夫は、頭は良くなかったが、かけ足が速かったので、選手に選ばれた。それは、五年と六年の競争であったので、五年が勝つことは、めったにない。そこで秘策を練った。一人がまっ先に全速力でかけ出せば、六年生がそれを全速力で追うだろうから、途中でへたばる、そのところを他の人が抜くということだった。その犠牲になるのが、義夫に決まった。
 そして、いよいよ競争が開始された。秘策通り、トップを切っているのが義夫だった。何度も何度も追い越されそうになる。ところが、義夫はさらに頑張った。最後に「ちくしょう。」と思った。そして、もうれつなラストスパートを出した。
 こんな場面を頭の中に浮かべていると、なにか力強さが感じられた。それと共に、だれが何と言おうと、自分の気持ちに正直にしたがわなければおさまらないという気性を、私も持ちたいと思い、反省させられた。
 それから、一番、私が感動した所は、大越からの破談の申し込みがきたのがわからなかった。そして大越から手紙で知ったのが、自分には、大事なかくし事があるということだった。そんなかくし事をする義平(父)の一番いけない所で、それでこわれたのだと思った。しかし、素香から、なにもかも知らされた時、(父をうらむどころか、お礼さえ言わなくてはならなかったのだ)と思った。義平はしず子が、そんな秘密を知らないと思っているので、今までどうりやさしくした。そのやさしさが、しず子にとって、苦しかったのでした。
 ここは、「真実一路」を語っているが、私にはよく「真実」ということがわからない。事実とは、実際にあったこと、ありのままのことで、それを越えた、もう一つ高い所にあるのが、真実だということです。でも、私には、このことばがよく理解できない。
 この小説を読んで感じた事は、できることなら、私は私なりに真実に生きたいということです。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月26日

「あすなろ物語」を読んで 二C 根岸正江 1968年

 この本は主人公梶鮎太の幼年時代、青年時代、社会人としての門出の頃、やがて戦争から敗戦後までの壮年時の一時期といった風に年代順にそれぞれの六つの物語から書かれてあった。それと、明日の日を夢み努力する「あすなろ」の木のような人間の半生が描かれてあった。
 ここには、六人の女性があらわれる。女性の六つのタイプといってもいいと思う。
 まず、初めに現われる冴子は少年鮎太の心に愛と死の純粋さを与えた。これは、人生の入口に立つ鮎太に異様なショックを与えた。しかし、鮎太はその死の意味を語ることも説明もできなかった。鮎太にとってこれが生涯での最初の是非必要な経験ではなかったろうか。
 次は気性のはげしい、気の強い性格の雪枝により、意気地なしの体の弱い鮎太は、この女性にきたえられていく。私は男性が女性にきたえられるなんてよっぽどの鮎太は意気地なしに思えた。しかし、鮎太はいつも成績は一番だった。ある時、鮎太は二番にさがってしまった。意気地なしのくせに、負けずぎらいだった鮎太には、自分より成績のよい生徒がいることが、とてもくやしくて、がまんできなかった。
 他の教科は満点近くとれるが、体操や武道だけが落第の点に近くぜんぜんできなかった。今で言えば、がり勉と同じではないか、がり勉の意気地なしの鮎太に私は「男だったらもっと男らしくなったらどう」と大きい声でどなってやりたい。
 次は、未亡人の佐分利信子である。ここでは北国の町の青春を、多くの人々の姿を描く。皆、ひのきを夢みているあすなろ達である。華やかな若い未亡人をめぐり、学生達のそれぞれの思慕や、なやみなどのその様子の表現がみられた。そして鮎太がだんだん大人になっていく、様子が描かれている。
 それから、鮎太は学校を出て、新聞記者の一員となって働いた。社会の人となり、ここには清香という女性があらわれる。ここでは清香との一夜の幻想的ともいえるものを物語っている。
 やがて、戦争になり、左山町介という他社の記者が競争相手として現われる。加島浜子という女性も現われる。だが、ここではむしろ、競争相手との競争の心理が主となっていた。新聞社の生活の奥の方へ一歩一歩足をすすめていく主人公の活気があった。
 最後には、敗戦直後のなげかわしい、建物や城などのすたれはてたあとにおける、鮎太の生活が書かれてあった。妻子をそかいさせ、一人都会の焼け野原の上に相変わらず、記者の生活を続け、オシゲという正体不明の浮浪児の、ともいえる若い女性との一時の関係も書かれてあった。「あすなろ」とは、人間愛の象徴のようなものではないだろうか。初めに言ったように明日は何ものになろうかと努めている、多くの「あすなろ」を通じて人間の運命といったものをこの作品は考えさせてくれた。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「赤毛のアン」を読んで 二B 高山恵美子 1968年

 顔は白く小さくやせている上に、そばかすだらけ。大きな口。その時の気分と光線のぐあいで、みどり色に見えたり、灰色に見えたりする大きな目。その目には、いきいきした活力があふれ、口もとは、やさしくりこうそうで、ひたいは豊かで広く、体には、すぐれた魂が宿っている少女。赤毛の少女。そう、この少女がアンなのです。アンは、しゃべることが好きで、想像力とユーモアに富んでいて、りこうで思いやりが深い少女なのです。アンは孤児院から、マシュウ、マリラのきょうだいに、ひきとられたのでした。アンのおしゃべりは、とても楽しく、マシュウはもちろん、マリラさえ、アンが次に何を言うのか、まちかまえるしまつです。私も、アンのおしゃべりを読んでいて楽しくて、おもわずほほえんでしまうことが、何度もありました。アンのおしゃべりを読んでいると、心が明るくなり、勇気がわいてくるようでした。
 アンはダイアナというすばらしい友人をもち、マシュウ、マリラの深い愛情につつまれて、明るく、かしこく、成長していきました。もっとも、その間には、ゆかいな事件をつぎつぎにおこしたり、苦しいことも悲しいことも、ありましたけれど、アンはそういうことに打ちかって、明るく成長したのです。
 アンとギルバートは、小さい時からの勉強の競争相手でした。二人はお互に、心の中では愛し合っているのですが、ギルバートが、アンの赤毛のことをニンジンと言った事が原因で、仲良くすることができませんでした。それは、クイーン学院に入ってからも、かわりませんでした。
 やがて、アンは卒業しました。アンは、エイブリーしょう学金を取ることができました。アンは、アボンリーに帰ってきました。
 アンの未来はバラ色にかがやいていました。しかしアンの周囲に不幸なことがおきてしまったのです。マシュウの死、それとマリラの目の病気がそれです。アンは、そのために大学をあきらめなくては、ならなくなってしまったのです。しかしアンは、失望しませんでした。アンは知っていたのです。未来への道に静かな幸福の花がさきみだれていることを。それはギルバートと和解できたことから、アンは知ったのだと思います。アンの生活には、いつも真けんな仕事と、立派な理想とあつい友情がありました。なにものも、生まれつき、アンがもっていたものをとりあげることは、出来なかったのです。私の生活にも、アンの生活にあったものが、ほしいと思いました。どんなに悲しいこと、苦しいことにあっても、希望を失わなかったアン。すばらしいアン。私はアンのもっていた、あつい友情、努力、たくましさ、それと、清らかな愛情、とてもすばらしいと思いました。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「あすなろ物語」の「深い雪の中で」を読んで 二B 中島みよし 1968年

 この物語の主人公は鮎太という十三の少年ではじまるのだった。祖母りょうとの生活は楽しいものであった。そこへ、突然やって来たのが冴子という十九歳の少女であった。自分たちの生活に一人ふえるということは、これからの生活をかえたのであった。むしろにぎやかになったとでもいうか、その冴子と云う女はやさしげのない、いじわるの子とさえ鮎太には感じたのであった。
 しかし、それは、はじめの生活をみて思っただけであとの方になると、だんだんやさしくなった。私はだれでも、はじめは少しいじわると思えるのも無理ないと思った。しかし冴子はやっぱりやさしい人であるのがほんとうだったのかもしれないと、私は感じた。
 冴子の評判はよくなかった。それというのも村の冴子と同じ学校へいっている二人の少女がそう村人たちに言っていたのである。私はちょっとその二人の女の子がいやであった。人の悪い所をいう人はきらいだったから。
 ある日、鮎太は冴子に手紙を加島という学生にわたしというだいじなおつかいを頼まれた。加島という名はあとでわかったのだ。わたしたその帰りお菓子をもらったりしてうれしかったろう。それと鮎太にとってその加島という青年はこれからの鮎太を変えた。それはよい意味での変わり方であった。その話は鮎太に「勉強をしろということのむずかしさでいわば克己ということであって、克己はなかなかむずかしい」などといろいろくわしく話してくれた。それからの鮎太は変わった。一日中、学校へ行っている以外はいつも机に向った。
 はじめ冴子はそんなこと続くものかといっていたがあまりにしんけんさに冴子もお砂糖湯を作ってくれたりして、やさしくしてくれた。ある日、冴子からの頼みで手紙をわたそうとした所、ちょうど学生がいなかったので小母さんみたいな人にわたしてきてしまったのである。
 それが、数日後、冴子の顔色が急に変わって「あんた、あの手紙小母さんにわたしたでしょう」といって加島がおこっていたといった。それからだった。冴子が二、三日あけることが何回かあったのは。そしてまた、今日も冴子はおりょうばあさんにおこられていたのであった。そして鮎太もどこかへいってたのか、冴子に聞いたら「トオイ、トオイ、山の……ネムッテシマウノ、イツカ」といった。
 そして冬がきたある日、心中もんが見つかったという村人の話であった。鮎太はそれが冴子たちであると思った。私もそう思ったがなるべくそうでないようにと、私は心の中でいっしょうけんめいに、いのった。それを鮎太はたしかめにいった。やっぱり二人は冴子らしい人と加島みたいだった。その時私は、はっとした。この場合鮎太はどう思ったかと思うと先を急ぐのだった。克己(こっき)ということを教えてくれた加島だったのに……。
 しかし、心の悲しみよりもっと得体の判らぬしょうげきを与えていた。私はその時、ぼうぜんとしている鮎太に胸をすいこまれるのだった。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「にんじん」を読んで 二A 内田喜雄 1968年

 冬休みの宿題に読書感想文を書いてくるという課題が出された。
 おれは本を読む事がきらいだから重い荷のように感じたが、夏休み以後一冊も本を読まなかったから、あまりいやではなかった。
 そこで読んだ本が「にんじん」という本です。この本は国語の教科書の読書案内に書いたあった本で、おれは読書をほとんどしないから中二の教科書の物を理解できるかということもためしてみたかったのです。
 この物語りはルナールというフランスの小説家の書いたものです。
 この物語りには、ルナールの幼少の頃の体験を基にした自伝的作品だそうです。
 「にんじん」彼はルプック家の次男として生まれ兄のフェリックスと姉のエルネスティーヌの三人兄弟です。彼は、赤い髪の毛をしていて、そばかす肌をしていたから「にんじん」という愛称です。
 この物語りは彼の体験が多くの段落に分けて書いてあります。
 しかし、この文章の内容がつかみにくいと思った。ルナールの表現の豊かな面とたとえのうまい複雑な文章だと思います。
 ルナールの表現力がうまいと思った場所は「彼らはひじをついて、もぐらがほり返してふくれあがった塚を眺めそのもぐらの通り道は、ちょうど老人の皮ふにあらわれた血管のように、土の表面にジグザグと続いている。」このように、表現の中にうまくたとえを生かした所もあれば、読みながら考えさせるといったような場面「正午からは、その葉っぱは、葉というより点になって死んだようにじっとしている。そして、にんじんは、じれったくなって気がつまるような感じがしてくる。するとやがて、その葉っぱが合図をする。」というように読んだだけでは想像できないと、いったような面も非常に多い。
 ただこの文章で他の文章とちがったことが書いてあると思った。
 その場面は彼が父の猟に行ってつかまえてきたしょこどりを手でしめ殺す所。まだある。もぐらを殺す所もそうだし、ある日ねこを小屋にとじこめえびがにのえさにするために猟銃で殺してしまう所など、日本では常識として考えられないことでも、平気でしている。生き物を殺すということの書いてある本はあまりないところだし、人間の生活というものが生き生きと、えがきだされている。
 だから普通のありふれた物語りと違っていると思う。
 おれは、この本をよく理解することができなかった。その原因は普段読書をしないからだと思う。
 これからは、もっと良い本を数多く正確に読んで行きたい。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

「リンカーン」を読んで 二A 田幡和子 1968年

 私は、今までに、いろいろな人の伝記を読みましたが、この「リンカーン」は、今までのどの人より、立派だと感じた人でした。
 リンカーンが生まれた時は、アメリカにまだ、未開拓地が、たくさん残っていた時でした。リンカーンが四歳の時、お父さん、お母さん、それに姉のサラとエーブは、ノップ・クリークにやって来た。今まで、ノリン・クリークに住んでいたが、土地が悪く、作物がよく育たないので、引越して来たのでした。
 静かな森の中で、エーブはすくすく成長しました。
 ある日突然、お母さんが悪い病気になってしまいました。それである日、死んでしまいました。その時の、エーブの心境は、きっと悲しく、さみしく、はりさけそうな気持だったと思います。でも、くよくよしていないで、元の元気なエーブにもどりました。
 数日たって、エーブが森へ行った時、泉で鹿の親子が水を飲んでいるのを見ました。エーブは、父に知らせようとしましたが、鹿がかわいそうになったので、やめました。この時、とても心のやさしい少年だなあと思いました。
 数年たち、エーブは、立派な若者になりました。友達と二人で町にやって来た。エーブは、「奴隷売買」という看板を見ました。それは、エーブが幼い時見た、黒人と同じような人々が売買されているのです。この時、エーブは決心しました。「この人々が、幸福に暮らせる世の中を作って見せる」と。白人が皆、エーブのような心を持っていれば、アンクル・トムのような悲劇、南北戦争のような大きな争いがなかったかもしれなかっただろう。
 黒人達を救うために、雑貨店の店員、村の郵便局長、そして、弁護士になり、とうとうアメリカ第十六代目の大統りょうになったのでした。
 リンカーンが、大統領になった翌年、南北戦争が始まりました。四年戦った後、とうとう北部が勝ちました。奴隷は自由になったのです。リンカーンは、どんなにうれしかったことでしょう。でも、戦争によって、多くの人々が傷つき、死んでいった事を嘆きました。そして、死んだ人々のために、ゲテスバーグの丘の上に戦死した人を祭りました。何て、心のやさしい人なんだろう。
 ある晩、リンカーンがいやな夢を見ました。それは自分が死んだ夢でした。でもその夢は正夢になってしまいました。ワシントンの劇場で芝居を見ている時、暗殺されました。犯人は、戦場で負けた、南の国の人でした。負けたからと言って、リンカーンを暗殺するなんて、ひきょうな人なんだろう。
 リンカーンは死んでしまってもくいない。今のアメリカ大統領がリンカーンのような気持を持っていたら、ベトナム戦争は起こらなかったかもしれない。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「みぞれは舞わない」を読んで 二A 宮島和子 1968年

 この本は、小川高校の田島清子という人が書いたものである。兄が買って来たので読んでみた。これは、世の中に対する批判であると私は思った。詩一つ一つ見ても出てくるものは、悲痛なさみしい詩ばかりである。彼女は人間の美しさを求めた。しかし、その美しさがつかめない、見い出せないために、死を選び永遠の眠りについたのである。私は、これを読んで、はじめのうち、なんてひねくれた人なんだろうと思ったが、よく考えてみると、この人は、人よりいっそう美しい心の持主であり、能力をもった人だと思った。
 彼女は、人の考えを見つけているのではないだろうか。自分に対して、人がどんな反応をしてくれるか期待している心もあるようであった。自分の正しいと思ったことなどいっても、今の世の中では全部とはいえないが、通じるものではない。だから人間の美しさは生まれてくるはずがないと彼女は言っている。
 人間は、ただ明日の生活のために働いているのでは、夢のない生活、希望までなくしてしまう。そんな所に彼女は不満を持っているのであった。そんな事が、だんだん彼女を孤独にしてきたのではないかと思う。
 私はこれを読んで、いろいろな強がりをいっていた彼女が最後的に死を選ぶなんて、私には理解できなかった。これだけの作品を残しながら、非常に残念に思う。結局彼女は、彼女の思う美しい世の中を感銘することはできなかった。
 しかし、彼女が最後的な結果として死を選んだことは、彼女のあやまちであったと思う。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「赤毛のアン」を読んで 二A 新藤浩子 1968年

 私は赤毛のアンを読んでとても感動しました。でも言葉で表わせるような感じかたではなかったのです。どう表現していいのかわかりません。ただ、心がふるえたのです。
 「アン」それは、想像する人と呼んでもよいと思います。それは、自分の頭の毛が赤い毛で、顔はそばかすだらけでも、自分を想像することによって、頭の毛は金ぱつで、顔は美しい、ということを想像していました。ですから、いつでもほがらかで、友達にも好かれていました。また「アン」はとても勉強ができました。そして、クラスではいつも一番でした。私はなぜ「アン」が一番なのかと思いました。私の考えでは、「アン」は想像を勉強にとり入れて、想像しながらいろいろなことを覚えていったのだと思います。
 しかし、自分で想像しようと思ってやったのではないと思います。ただ、想像というものが「アン」の心には、いつもあったのだと思います。
 悲しみになっているときも、想像はあったでしょう。苦しみに耐えているときも、想像と根性によって、それをはねのけたのでしょう。
 私は、「アン」のような想像力が、あればいいなと思いました。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月24日

「はるかなる歌」を読んで 二A 栗島澄子 1968年

 私は読書をするときは普通、幾日もかけて読むのですが、この本は三時間半で読み終わりました。この本を読んで、どんな人でも暖かい心を持ってその人にあたれば、きっとその人もわかってくれる日がくるのではないかなあと感じました。
 ここにでてきた洋子は、始めは利己主義者でした。でも、いつしか由紀子のやさしい心が通じて、以前の洋子からは想像もできない人に変わってゆきました。洋子にかかると別に悪いことをしなくても、一度は必ずいやな思いをします。洋子がこんなになったのも一人っ子だということも影響しているのではないかと思いました。なんだかかわいそうな気もします。洋子は表面では強そうなことを言っていても、内心では、とても寂しいのだと思います。由紀子がいちばんかわいそうだと思った。洋子のたった一言で、しあわせだった由紀子は、母に甘えることすら忘れてしまった。由紀子の母がどんなにつくしても、元の由紀子にはもどってはくれなかった。この時の母は、どんなに悲しかっただろうと思った。また由紀子もだ。でも由紀子は洋子をにくんだりしなかった。それどころか、
 「洋子さんは、ほんとうはいい人なのよ。」と言うのだった。ほんとうに由紀子さんて、優しい人だなと思った。こんなふうに解釈する人は少ないだろうと思う。始めは洋子がかわいそうな子だなという気もしたが、半分読み終わると、かわいそうどころか、私にはくやしくてならなかった。でも洋子の気持ちが変わった時は、うれしくてならなかった。
 由紀子は私以上に、うれしかったと思う。そして由紀子が家出をしてから、母はいっしょうけんめい捜し続けた。母は日に日にやつれていった。由紀子は家出までしても、父や母のことを忘れたことはなかった。やっぱり親子だなと思った。由紀子が家出をしなければならない原因は、洋子にあった。また洋子も家出をした。でも今の私には、家出などしてなんになるのか不思議だ。子供が家出をして、学校もちゃんと卒業しないのに、仕事など思うようにできるものかなと思う。それにお金もないのに、どこに泊まるのかなと思う。
 そして幾日か離れているうち由紀子は元の由紀子にかえった。家出をした由紀子は、本当に良い勉強になっただろうと思った。そして病気だった父もなおりもとのしあわせな家庭にもどった。もとの家庭にもどったことは自分のことのようにうれしい。私は、もっと自分のことばかり考えず、他の人の身にもなって考えるべきだと思った。
 私も由紀子さんみたいな、やさしい人になりたいと思う。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
※北條誠「はるかなる歌」(1953年、ポプラ社発行)。→ウィキペディア「北條誠」。あらすじは、『カナのブログ』さんの「北條誠「はるかなる歌」を読んで』を参照。
posted by ransiro at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「大地」を読んで 二A 権田幸江 1968年

 私は、本屋に行った時なんとなく目にとまったのが「大地」という本で、国語の先生にも「一度は読んでみなさい」と言われたのを思い出して、本を手にしたが、言われたとおりこの本は、私の心になにかを与えて一まわり大きくし、大地は、父は、農民にとって命よりも大切で、日でりや大雨にあうと、人々を人間でなく動物か鬼にしてしまうほど、大きな力をもっていることを知らされた。ここでの主人公である王竜とその妻である阿蘭との夫婦は、大地をとても大切にしそして、その土地から金が生まれ、それを子供達の成長に、本人らの財産にしたのである。それから、私が大変たまげたのが阿蘭の働きぶりであった。
 子供が生まれる時など一人で産んで、そしてその日畑にはってきて夫のために働こうというのである。
 私は阿蘭のその行ないを見て、とうてい私にはぜったい出来ないことだと思った。阿蘭をこういう働き者にした原因は、彼女の両親達は、生活に苦しくなると自分の子供を安いお金で売ってその場をしのいだのである。阿蘭の親だけでなくそのころの中国の生活は、そうしなければ生きていけないほど苦しいものだったのである。それを見て私は、中国に生まれなくてよかった。そしてもし、私がそのように安いお金で売られ親と別れてよその家でこきつかわれ、お金もはらってくれない所へいったら、とても息がつづかないと思った。そして彼女は、ヤートウとして幼い頃からよその家で働いてきたのである。ときには、土をとかして食べたり、草の根を食べたりして急場をしのいで共にした夫婦、いや中国全体の人民の生活をどんなものかとうてい私には、想像のできないことである。
 私始め今生きている人々にも、やはり土は食べられないと思う。そして、時には親は自分の子供まで食べて生きようと努力したその姿、いつかはきっと幸福はくると信じて生きつづけてきたこの人々をほめたいと思う。けれど、私の想像しているものは、そのころの中国の人々から見れば、なまやさしいことだと思う。
 私はこの本を読んで私始め、今生きている人は幸福なとき、生まれてよかったとつくづく思った。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
posted by ransiro at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「私の歩んだ道」を読んで 二A 高橋京子 1968年

 この本には、音楽を求め続けた一人の人間のたどった道がしるされている。
 彼は(この本では匿名で呼ばれている)小さい時から音楽が好きだった。
 高校一年の時、ブラスバンド部に入部したのがきっかけとなりフルートを担当したが、たちまちフルートのとりことなってしまった。
 そのためクラスでも成績は上位だったが、下がってしまった。
 彼の家は昔から続いた料理屋を経営して、父は封建的なきびしい、いわゆるガンコ親父であった。彼の成績が下がったのを知ると、「勉強を下がらせるくらいなら、ブラスバンドなんてやめてしまえ」と怒られた。
 彼も負けずぎらいが爆発して、一年でブラスバンド部の部長となり、都下のブラスバンドコンクールでも一位となり勉強も以前よりまじめにやり、前の成績より上げた。
 私は彼がずいぶん負けずぎらいなんだなと思ったけど、えらいなと思いました。
 彼は大学へ行きたいという希望があったが、父は彼が家を継ぐ事を願っていたため、彼の大学進学には反対だった。けれども父をときふせて入学した大学だったが一年ほどで、退学しょ分となってしまった。
 父がサギにあってしまい授業料がはらえなくなったためで、家具など売ったが、父は彼のフルートを売ろうとしなかった。
 みかねて彼がフルートを売ろうとした時、かえって怒られてしまった。
 ずいぶん、理解あるんだと思った。それに、売ればお金になるフルートを売ろうとしなかった彼の父はえらいと思う。
 そのうち彼は、あるバンドに入りフルートをふいて生活費を母に内緒で渡していた。その事が父に知れると、父は許してくれず彼は家を出てしまった。
 でも、私は家のためにやった事なのだから許してやってもいいと思った。
 そのうち家族が説得して家に帰り、またもとの大学へ入学した。そして作曲科に入部し努力を続けていった。
 かれの地味な努力も、作曲家としての実力もしだいに認められていった。そして父はついに、彼を許してくれた。「そんなに好きなら死ぬまでやれ、自分の手で新しいものを作ってみろ。」と…。
 私が一番強く感じた事は、一つの目標に向って、大波が来ても乗りきって行くような彼の精神力の強さ、それに親子の強い結びつきに感動した。
 そして、常に新しいものを取り入れようとする姿もつくづくえらいと思った。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月23日

課題作文「幸福について」 三年C組 鶴岡節子 1968年

 「現在、あなたは幸福ですか」と、とつぜん聞かれたら、私はどう返事をするだろう。
 私の思う幸福は、その場その時によって、いろいろ変わる。漢字テストで満点をとれたのが幸福な時もあるし、母といっしょに、買い物に行き、荷物を半分持つ事が幸福な時もある。
 二学期に同じ「幸福について」という題で班としての意見文を、書いたことがあった。班の意見なので、全部が私の意見ではなかった。私もそうだったが、皆なも、たとえ、貧しくとも家族で協力し助け合っているなら幸福なのだ。幸福とお金は縁がないものなんだと考えていた。本やドラマに出てくるのでこれが真の幸福なのだと信じこんでいたのだろう。今は、そう考えていない。ただ人の意見をまねしていただけなのだ。よく本などでは、お金の幸福を否定しているようだが、時々、そうではないような気がしてくる。私の幸福とは、もちろんお金ではないけれど、真の幸福は、お金にあると考えている人がいるならそれでいいじゃないか。その人はお金に囲まれていればほんとうに幸福なんだと考えることがある。こんな考えはまちがっているのだろうか。それなのに、ある時は、世の中のすべてはお金だと思う人、お金に幸福を求めている人をけいべつし不幸な人だと思うこともある。
 こんな人は幸福だとか、こんな人は不幸だなどとよく言っているが幸福とは何か、と、聞かれても、私には、わからない。辞書には、しあわせ、さいわいと出ていた。
 「現在、あなたは幸福ですか」と聞かれても私には答えられない。なぜなら、私には幸福の本当の意味がまだわからないから。

    菅谷中学校『青嵐』19号 1968年(昭和43)3月
ラベル:菅谷中学校
posted by ransiro at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 『青嵐』19号(1967年度) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。